ガラマニ日誌【30】05/2/1(火)人と道と携帯電話

休日も平日も、俺は、
紙製の本や、モニタに映し出されるテキストサイトや、
たくさんの文書を、読みあさっている。

俺は、小さい頃から、本を読むのが、
とてもとても、好きであるから。


昨今は、紙製の本だけでなく、
ウェブサイトにも、興味深く、有益な文書が、たくさんある。
それらを、検索で見つけたり、
リンク先のリンク先のリンク先で見つけては、

「おぉーッ、これはイイ!」
「ふむ、ふむ、なるほど!この筆者は面白い視点をお持ちだ!」
と感動し、次に、自らに翻って、内省する。
「あのテーマについて、自分ならば、どういう考えを述べる事が出来るだろうか」と。

そして次には、自分が思ったことを、自サイトに書きたくなる。

俺は、小さい頃から、作文を書くのが、
とてもとても、好きであるから。


そして、こうして俺が書いたものを、読んで下さった、誰かに、
俺が、あれら、本やサイトからもらったのと同種の、
創作意欲を、感じてもらえたならば、こんなに嬉しいことはない。

さてガラマニが、子供の頃から、座右の銘として、愛読している本がある。
これは、小学4年生向けに、今から120年前、遠い異国で書かれた本だ。
本日のテーマは、この本の引用で、始めるとしよう。

少し長いが、どうか、これは↓とばさずに、ゆっくり、読んでほしい。

 「道」

お父さんはね、今日の午後、お前が先生のお宅から、帰ってくるところを、窓から見ていたんだ。
お前は、表通りを、早足で歩いていた。家の方ばかりを見て、周囲のたくさんの人々を見ていなかった。
そしてお前は、女の人にぶつかっただろう。
道を歩くときの態度には、もっと気を配らなければいけないよ。
よくお聞き。学校や家の中で、先生やお父さんの前にいるときにだけ、
お前は、お行儀良くしていればいいのではない。

道を歩いているときにこそ、果たさなければならない義務が、人にはあるのだよ。

もしもお前が、よそのお家の中で、立ち居振舞いや、お行儀を気にするのならば、
どうして、町じゅうの人々の家である道で、同じ気持ちで行動することが出来ないのだね?

よく、おぼえておくのだよ。腰の曲がったお年寄りや、乞食や、
赤ちゃんがおなかにいる女の人や、松葉杖をついている人や、重い荷物を運んでいる男の人や、
喪服を着ているご家族に、出会ったならば、いつでも黙って道を譲りなさい。
老年、不幸、母性、病身、労働、死。こういったものに対しては、常に丁重に接しなければならないのだ。
人が、車にひかれそうな所に立っていたら、子供ならば、手を引いてあげなさい。
大人ならば、声をかけて差し上げなさい。
小さな子供が、1人で泣いていたら、どうしたんだい、と、尋ねてあげなさい。
お年寄りが、杖を落としたら、拾って差し上げなさい。
2人の少年が、ケンカをしていたら、仲裁してやりなさい。
もし、それが2人の大人であったら、避けて通りなさい。
人が人に対して、暴力をふるうような場面を、好奇の目で見てはいけません。
それは、お前の心を、すさませ傷つけるものだからだ。
また、人が、警察官に捕まり、連行されて行く場面に遭遇したら、
お前の周囲の大人たちが、たとえそれを指さし面白がっていようとも、一緒になって笑ってはいけない。
その人は、無実の罪であるかもしれないからだ。
病院の担架に出会ったときは、友達とお喋りしたり、笑ったりするのを、すぐにやめなさい。
その担架には、ひどい傷を負った人か、さもなければ、既に亡くなっている人が、乗せられているのだよ。
その担架が、明日にでも、自分の家から出ないとも限らないだろう。
並んで歩いて来る、養護施設の子供たちを見たならば、敬意をはらいなさい。
盲目であれ、聾唖であれ、小児麻痺であれ、親に死なれた子であれ、親に捨てられた子であれ、
どういう子であっても、彼らには皆、
お前が持たない不幸と、お前がまだ知らない慈善とが備わっているのだよ。
顔をそむけたくなるような、気が狂っているような、不具な人に出会ったならば、
いつでも、気がつかないような素振りでいなさい。
道で、燃えているマッチを見つけたら、すぐに消しなさい。そのために誰かが命を落とすかもしれないからだ。
道を尋ねる人があったら、いつでも丁寧に答えなさい。
よそ様を見て笑ってはいけない。必要もないのに走ってはいけない。大声で叫んではいけない。

お前の住むこの町を、大事にしなさい。

一国民の教育は、何よりもまず、その人たちの住む町における、礼節で判断されるのだよ。
道の歩き方に、悪質な光景が見られる所には、家の中に人の中にも、悪質さが在るものなのだ。

また、お前の町を、じっと見つめてごらんなさい。
もし明日にでも、この町から離れて、遠くに行かなければならなくなっても、
この町を、はっきりおぼえておいて、何もかもありありと思い浮かべることが出来たならば、
どんなにか、幸せなことだろう。
お前の生まれた都市、お前が生まれたのは、この、小さな小さな国家だ。
この小さな国家はね、お前が生まれてから幾年かの間、お前の全世界であったのだ!
この町で、お前は、お母さんのそばで、人の最初の歩みを学んだ。
この町で、お前は、最初の情熱を知り、最初の知識に心眼を開き、
そして最初の友情と出会った!
この町こそが、お前の母胎であった。この町が、お前を導き、お前を愛し、お前を守った。
お前の暮らす空間と人々の中で、この町について、学び、見つめなさい。
そしてこの町を愛しなさい。
そして、この町のことを、他の町の者が、
もしも侮辱したならば、これを弁護しなさい。

父より

イタリア文学者 エドモンド・デ・アミーチス著「クオレ」より
主人公エンリコへ、父からの手紙部分
岩波少年文庫「クオレ」前田晃による1955年版の訳

新潮文庫「クオーレ」和田忠彦による1999年版の訳


これを参考文献にし、
ほぼぜんぶ、ガラマニが、自分の文体に書き直しました。
部分的に、原文に無い文を挿入し、原文の意図が、通じやすいように補足しつつ、
ガラマニの思想を、つけ加えました。
それが翻訳であり翻案というものですから。

さてはて、この場合、ガラマニは、誰の著作権の何権を侵害しているのか?

「イタリア語原文を、ガラマニが翻訳しました」と言ってしまえば、デ・アミーチスは1908年没であり、
原著者名を明記したことによって、著作者人格権は侵害していないから、著作権法上は、なんら問題なかった。(たぶん。)
だが、いかんせん、ガラマニは、伊文翻訳は出来ないから、前田・和田両先生の訳文を見なければ、これは書けなかったのだ。
つーことは、前田・和田両先生の訳文を、ガラマニが翻案したことになるから、前田・和田両先生ないしお二人の著作権保持者に対して、
「こんなん書きましたけどサイトに載せてもいいですか」と許諾願いを出さねばならない。(たぶん。)
「引用」ならば、許諾はいらないが、その場合、前田先生のか、和田先生のか、どっちかを、
一言一句違わずに掲載しなくてはならず、これは大幅に書き直してしまっているので、まったき改編・翻案だ・・・


・・・ウーン・・・
これって、著作権法上は、どうなるのだろうか・・・
どうなるのだろうかっつーより、こんぐらいでも、
いちいち許諾を得てからでないと、サイトに載せられないんだとしたら、
すげー、めんどくせーから、そもそも書く気すら無くなってしまうではないか・・・
だとしたら、
日本の子供たちに「クオレ」を読んでほしい!という、
前田・和田両先生の思いをこそ、俺がここで表現する事が、はや、出来やしないわけで・・・ブツブツ


ま、著作権はややこしーから、置いとくとして(置いとくのかぃっ)、

「クオレ」は、小学4年生の主人公、エンリコの視点で、学校や家族、友達について書かれた長編である。
俺は、エンリコと同い年で、この本と出会い、以来、現在まで、何度も何度も読み返しては、
新たな感慨と、教訓をもらっている。

特に、上記部分について、昨今の社会を鑑みて、激しぃく、思うところがある。

上記は、「道の歩き方」がいかに大事であるか、
「道の歩き方」ひとつで、個人の人格が、わかるばかりか、
「道の歩き方」を見れば、その町、その国の品性までもが、よくわかるのだと、
「道の歩き方」によって、故郷を愛する気持ちが培われるのだと、
10歳の少年エンリコに対して、お父さんが、切々と教えている名文である。


「なんだ、こんなの、子供向けの教訓じゃないか。
おれは、こんなことが大事だなんて、わかってるし、ぜんぶいつも、守っているよ。」


と、言い切れるだろうか。

俺は、言い切れない。

だから、この本を、読み返す度に、胸を打たれ、自戒させられる。
そうさせてくれる本だから、これは、名著なのだ。

そして、120年前に、小学生向けに書かれた教訓でさえ、
守れていない大人が、多くいるこの国の人には、何度でも、あん〜あ、何度でも、
エンリコのお父さんの教えを、読み返してほしいと思う。
俺も含めてね。

上記中、自分の年齢や、現代的状況によって、
そのままで良いものばかり、ではないのは、もちろんである。

街中でケンカしてる男がいたら。
>それが2人の大人であったら、避けて通りなさい。
小4の子ならば、そうすべきだが、
自分も大人ならば、携帯電話で、しかるべき機関に通報すべきであろう。
ただ、
>人が人に対して、暴力をふるうような場面を、好奇の目で見てはいけません。
これは、いつの時代でも当てはまる真理だ。

通報も仲裁もせず、遠巻きに眺め、ニタニタ笑いながら、
その光景を携帯カメラで撮ってウェブサイトに勝手に載せてはいけません。
そのような行いは、
>お前の心を、すさませ傷つけるもの
であるのみならず、無辜の他人を傷つける行いだからだ。

・・・携帯で・・・

で、さ。

俺が、何を一番、訴えたいのかというとさ。

そう。

携帯電話ですよ、奥さん。

昨今の「道」には、
手元のケータイを、うつむき眺めながら、親指でピポパポ押しながら、
あん〜あ、押しながら、一心不乱に押しながら、
肩で、他人をよけながら、時にぶつかりながら、
ひたすらケータイしながら歩く人々が、それはもぉ多くいる。

ともすると、自転車に乗りながら、ケータイしてる人もいる。

自動車運転中のケータイは、道交法で規制対象となった。
いっそのこと、ケータイ自体を規制対象にしてくれんかね。
この際、道交法違反でも著作権法違反でもなんでもエエからさ。←やや意味不明

さて、携帯電話を、ピポパポしながら、道を歩いていたら。
エンリコのお父さんの教えを、守れるか?
もっかい、上記を読み直して、確認してほしいのだ。

携帯を、一心不乱に眺めながら、歩いていたら、
白い杖を持ち、盲導犬を持たない人が、信号を渡れなくて困っていても、
気がつかないで、通り過ぎてしまわないか。

その携帯画面に、目の見えない隣人の困窮よりも、もっと大事なものが、映っているのか。
たとえ、災害ボランティアの募集告知が、それに映っていたとしても、
「被災地はひどい状況だ。よし、おれは休日返上でボランティアに行こう!」
という意欲に燃えて、携帯画面を見つめていたとしても、
あなたのすぐそばで、困っている人を、
見ることが出来るのに、見ようともしないで通り過ぎたならば、
あなたは、災害ボランティアに最も必要な「精神」を持たない人だ。

周囲を見渡して歩く。特に、人の多く通る「道」では。

こんな当たり前のことが、ケータイ人には、守れない。
いやさ、ケータイがそれをさせないのか?

俺は、携帯電話や携帯メールに、非常に助けられているし、
このアイテムにしかない、利便性は、充分に認めている。

だけど。

いまそばにいる人に、敬意を表しましょう、とか、
いまそばにいる人に、ほんの少々の気を使いましょう、とかいう、
「クオレ」の120年前より、もっとずっと昔、
人類の文化的生活が始まった、紀元前頃から、
今現在まで、不変であるはずの、当たり前の礼節が、

ケータイしながら歩く人に、当たり前失われているのは、

な ぜ だ

と問いたいのである。

礼節に加えて、今回は、危険回避という観点も押さえたい。
歩くときには、ちゃんと、周囲を見て歩かないと、
穴があったら落ちるし、でっぱりに頭をぶつけたりするんだよ。
これは、人類誕生より以前、動物にはなんで目ぇーや耳ぃーがついてるのか、そこまで遡る問題なのである。
運転中にケータイしたらあかんのと同様に、
歩きながらだって、至極危険であることに変わりは無いであろう。

過去日誌で、俺は繰り返しこのテーマをとり上げてきたが、
いっこうに、この疑問への答えが、見い出せないでいる。

どう考えても、おかしいのだ。
現代日本の「道」の様子がおかしいのだ。
おおぜいの道行く人々が、他人という名の隣人を見ずに、ケータイを見ている。
連れがいる人でさえ、連れさえ見ずに、ケータイを見ている。

人にとってなにが大事なのか。
人が道を歩くときになにが大事なのか。
我が目とアスファルトとの間にケータイを置き、
周囲の人々も流れ行く風景も目に入れず、
目に入れたとしてもケータイのカメラ画面越しで、
街頭の喧騒よりもケータイの着メロに耳を凝らして。

お前は、なにを求めて「道」を歩いているのだね、エンリコ。
お前が歩きながらやっている、その作業は、
家や喫茶店や公園のベンチで、座っているときに、
済ませておくべき作業なのではないかね、エンリコ。
お父さんの声は、もう、お前には聞こえないのだろうか、エンリコ。
教えたはずだ。

>道を歩いているときにこそ、果たさなければならない義務が、人にはあるのだよ。

と。

このテーマに関して、次は、ウェブで見つけた文を、引用しよう。
これは、2ちゃんの生活板にあった。

スレタイ「世の中がちょっとずつおかしくなってきてる」

論旨:現代日本は、少年犯罪が多くなったのではないか、
という流れの中、2つの投稿文が、俺の目を引いた。

【26:おさかなくわえた名無しさん

こんなもんだと思うよ。 戦争やってないぶん、暴力傾向が 目立つんでないの。
中世なんか無法もいいとこだよ。 常に殺し合い。親も子もなし。
ただ、個人的に言えば、
携帯が普及してから ある日突然、空気の様相が変わったのを感じた。
だからと言って、仕方がない。 携帯によって多大な利益を受けてるわけだから。】

【27:おさかなくわえた名無しさん

26も言ってる
携帯によって加速された感があるが、ネットの発達に
よって世の中が変わって来ている感はある、確かに。

俺が感じてるのは割とポジティブなもので、
「結構世の中の人達って カシコくなってきてるよなー」ってもの。
だって今や政治や年金や中東情勢、極東情勢なんてたいていの人が その人なりのポリシー持ってるじゃん。
そのうちより多くの人達がその知性でもって
世の中にいい影響をもたらし 始めると、結構本気で信じてるんだよね。
悲観したもんじゃないよ。】


27さんの意見では、
携帯と「ネット」が、情報媒体として並列的に語られ、
彼はその、良い面を述べている。俺も「ネット」に関しては同感である。だが、
「ネット=パソコン=家や会社、新幹線の座席など、屋内で置いて使うもの
少なくとも、座るか、せめて立ち止まってから、見りゃいーじゃんなものと、
「歩きながら携帯する」とは、およそ使い方において、天と地ほど違うのである。
もちろん「ネット」を携帯で見ながら、歩いている者は、携帯の方にくくられる。

俺の論点は、ただひたすら、「道」を歩く際の、
即ち、人と接している最中の、礼節なのである。

26さんの青字部分に、俺は強く共感した。
そうなのだ。26さん、あなたの言う通り、

>ある日突然、空気の様相が変わった
んだよなあ!この、驚愕の瞬間に、俺や、貴方もたぶん、成人してから立ち会ったのだ。
ついこないだまで、普通だった街頭の風景が、普通じゃなくなった、
あの瞬間の、凍りつくような異変を、俺も26さんも、感じたのだね。

そして26さん、俺は、
>だからと言って、仕方がない
とは、思わないんだ。
26さんの論旨は、俺の論旨とは違ってはいるが、
俺には、およそ「歩きながら携帯する」に関して、
「同行者が話し掛けているのに、相手の目を見ず携帯を見ている」に関して、
それをするなと、言えるだけの根拠があるんだ。
この根拠とは、たぶん、地球上の誰にでも、
世界史上のいつにでも、当てはまる基本的な礼節であり、
同時に、自分自身を守る、生き方そのものなんだ。
これを差し置いて、得る利益など、いらないんだ。

>携帯によって多大な利益を受けてる
からといって、守るべき礼節が、
いいや、ちがう!
携帯によって、どんな利益が、あろうとなかろうと、
ごく簡単に守ることの出来る礼節が、
ごく簡単に失われていることが、問題だと言いたいのである。

なんで歩きながら、自転車乗りながら、ケータイするのか。
ただ、立ち止まればいいのだ。
そして、「道」を通る他の人の、邪魔にならない空間を見つけて、
ビルの壁なりを背にして、1回見て、
また、「道」を歩き始めたらいいのだ。前を見てな。

ただ、これさえ、出来たならば、
ケータイは、「道」を歩く人が、古来より手に持つもの…
地図や、手帳や、方位磁石や、
デジカメ含む普通のカメラ(カメラ機能だけのアイテム)や、
双眼鏡や、缶ジュースや、
我が子の手といったものと、同等の、
単なる手に持ってるもの、となるのに、

なぜ、ケータイだけは、そんなに、
いつもいつもいつもいつも、見つめ続けるのだ。
歩いてまで、ピポパポピポパポ、メールするのだ。
我が子がぐずっているのを放置してまでケータイピポパポしてるのだ。

俺の同行者が、俺が話し掛けているのにケータイから顔を上げないから大声を出したら
「は?あ、ああ、なんだっけ。ナビ見てるんだよ。ここはどこだろう」
なんでそーゆーウスラ抜けたことが言えるのだ。
ナビなんか要るかよ、この駅前繁華街で。

いいか、よく聞けボケカス。

ここはどこなのか、教えてやろう。



ここは「道」だ!!



ま ず 立 ち 止 ま っ て か ら に し ろ

ケ ー タ イ よ り ま ず

そ ば に 居 る  を 見 ろ


次 に  を 見 ろ

太 陽 は ど っ ち に で て い る ?


あの空の太陽は、俺やお前や、お前のお父さんやお祖父さんが、
「道」を歩いてたとき、いつも変わらず空にあった。
そして今は、世界中の「道」を歩く人々の頭上に、太陽は、等しくあるのだ。
古代の人に、外国の人に、また他の町から来た人に、
なによりも、あのお天道様に!
恥ずかしくない振る舞いを、したいと思う。

携帯電話とは、便利なただの道具だ。
その利便性を知るならば、もうほんの少しだけでいいから、
使い方に、わきまえを持つべきだ。

「道」を歩くときには、
携帯電話は、かばんかポケットにしまっておきなさい。
必要なときには、周囲をよく見てから、立ち止まり、
通行の妨げにならない場所に移動してから、使いなさい。
同行者がいるときには、携帯で何をするのか、断ってから、
手短に用事を済ませなさい。


エンリコのお父さんが、現代人なら、こんなふうに書くだろうと、思う。


人と道と携帯電話。

この3者を繋ぐもの。
導くもの。ハッと気がつかせてくれるものが、ある。

俺にとって、それは、いつも、

「クオレ」の、あの文だ。

エンリコのお父さん、即ち作者、デ・アミーチスが、
1886年に書いた、あの文だ。
我が子のために、将来のイタリアを背負ってゆく子供たちのためにと願い、
アルプスの山並を北に望む、美しい町トリノの、片隅の、小さな書斎で、
背中を丸め、ペン先で半紙をひっかいて、
精魂こめて書いた、あの文だ。
そして2005年の冬、俺と、俺が書いたこの日誌を読んでくれた幾ばくかの人にも、
デ・アミーチスは、生きて語りかけてくれることを、
心より、願っている。

>道を歩いているときにこそ、果たさなければならない義務が、人にはあるのだよ。

と。


今日、俺は、自分の部屋で、事務椅子に座って、これを読み返した。

明日は、外套を羽織って、「道」へと歩き出そう。

「道」を行く、俺のかばんには、
「クオレ」岩波少年文庫版と、携帯電話が、入っている。

この二つのものの、本当の価値を、生かすも殺すも、
一重に、俺の「道の歩き方」にかかっている。

>一国民の教育は、何よりもまず、その人たちの住む町における、礼節で判断されるのだよ。
>道の歩き方に、悪質な光景が見られる所には、家の中に人の中にも、悪質さが在るものなのだ。

【追記】

アマゾンの「クオレ」はこんなん出ました
アニメにもなってるんですよ、「クオレ」。エンリコ役は、藤田淑子さんで、
竹田えりさん歌う主題歌、終わりの歌が、特に素晴らしく、胸をうちます。
エンリコの担任の先生が、毎月一回お話しして下さる、劇中劇の一つが、
かの有名な「母をたずねて三千里」です。アニメの「クオレ」も「母三」もいいけど、
やはり一番のお勧めは、原作完訳本、殊に前田晃訳(岩波少年文庫)です。

イタリア語の「クオレ」とは、英語のHeart、「まごころ」「情愛」といった意味です。

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