NHK大河ドラマ「義経」ガラマニの感想文 最終回スペシャル

05/12/11(日)

「新しき国」とは、「冥土」のことだったのですね。

義経ホームチームは、平泉に至る以前から、そう、都を追われ、山伏姿に身をやつした頃から、いつかは平穏な暮らしがしたいと、口々に言っていました。そして、安宅の関で窮地に立たされ、平泉に、やっとの思いで、辿り着いた。その間、ずぅっと、義経も、ホームチームの面々も、いつかは、自分たちの「新しき国」に行けるはず、どこかにそれがあるはずだと願って、その言葉を口にしていました。「新しき国」と。

それは、「冥土」のことを言っていたのだと、最終回で、わかりました。

解釈は、観る人によって様々でありましょう。俺は、最終回、即ち平泉の義経の館が、泰衡軍に攻められ、義経ホームチームが<最後の戦い>の決意を固めるまでの描写を見て、

ああ、彼らは、こうなることを、前々から悟っていたんだな。と、思いました。

我ら、ともに「冥土」に逝こう。武人として死のう。最後まで全力で戦おう。「生」を生き抜こう。その果てに、「新しき国」があるのだ。つまり、追いつめられていく過程で、義経たちは、本当に生き延びられるとは、実は思っていなかった。もうすぐ…我らは、この生涯を終えると、わかっていた。何処が、我らにふさわしい<死に場所>かと、探していた。それこそが、「新しき国」を目指すことだったのだと、俺は思いました。

そう。彼らは、もう、ずっと以前から…義経は、妻・静御前と生き別れてから…死に場所を探して、北紀行を続けてきた。大恩ある、奥州藤原氏のみたちの遺言、「義経殿を将として、頼朝と戦え」は、義経にとって、これ以上は無いほど、ありがたい遺言だったことでしょう。これぞ、何よりも、やり甲斐のある戦い、これぞ!九郎判官義経に、ふさわしい死に場所だと!

鎌倉軍の来襲に備えていた義経の館に、藤原家の次男、国衡@長嶋ジュニアがやって来ました。やっぱり、長嶋一茂なのに、賢そうに見えます。ナイス、キャスティングぅ。国衡は、兄・泰衡が、義経を討とうとしている事を教えに来てくれたんですねー。

「九郎殿。敵は、なにも鎌倉のみとは限らん。」

と、聞いた時の、タッキーの表情を見ましたか!もう、目は泳いでいませんッ!眉をピリリとこわばらせ、眼光鋭く、でも悲壮に光り、一瞬で、悟りました、泰衡の陰謀を。国衡の優しさを。自分の「死」が近いことを。それを、表情だけで、あん〜あ、それだけで、見事に表現した!!

滝沢秀明、天下一品の演技、ここに極まれり!大河、三十有余年のファンである俺、貴方に拍手喝采いたした瞬間は、ここでありました。素晴らしい。滝沢秀明、ああ、貴方は、遂に、一線の役者になられましたな!

(だが、まだ「一線」です。「一級」ではない。役者としては、これからですぞ、タッキー。)

頼朝に脅迫された、藤原泰衡は、義経の館を攻めて来ました。都から来ていたうつぼちゃん(出た。長距離移動簡単すぎ、新幹線並。最終回で、彼女の必殺技が見られて、嬉しかったですよ。)は、皆の身を按じて、叫びます。

「戦なんていけないよ。逃げないと!」

「うつぼ。事、ここに至っっては、是非も無い。我らは、もののふぞ。」

そうです。義経…いいや、タッキー。俺は心より、貴方の愛称を呼ぶ。タッキー。貴方は、事、ここに至って、もののふと相成られた!義経、悲壮につぶやきます。頼朝は、自分の首をとるまで諦めないだろう。自分が死ぬまで、自分の戦いは終わらないのだと。「死」を覚悟した、九郎判官義経と、ホームチームの面々…

彼らは、やおら、笑い出し、座って、思い出を語り始めます。伊勢の三郎。駿河の次郎。ヌートリア喜三太。ついに最後まで名前が覚えられなかった、一の谷から付いて来たやつ(ひ、ひどい…w)。そして、武蔵坊弁慶と。明るく、出陣の決意を固める彼らを見て、うつぼちゃんは、嘆じて言いました。

「みんな、死ぬ気だね。」

そう。だって我らは、大和のおのこだから。日本男児だから。もののふだから。義を見てせざるは勇無きなりだから。逝くのだ。死地へ。ヌートリア喜三太は(し、しつこい…w だって、顔がさぁ、どう見たってヌートリアなんだもんよ)、うつぼと、夫婦(めおと)になりたいと告白します。正確には、弁慶に言ってもらったんですが。わかっていたよと、彼女は笑います。わかっていたさ…あんたがあたしを好きだってことは。きっと、たぶんね、出会った時から。そして、わかっているんだ、二人とも。もう二度とは、会えないことを。

六人の侍は、大軍に向かい、特攻す。討ち死にを覚悟した、タッキーの台詞の、抑揚が実に美しい。美しいから、悲しい。これこそ判官贔屓の語源、薄幸のヒーロー、義経だ!

「では、参ろうぞ!」

刀、弓矢、長刀が舞う戦場。カキン、キン、と、刃の交わる音がする。薄暗い森に、白い花びらが、ちら、ちら、と舞っているのが見える。あぁ、最終回の演出は、黛りんたろう氏だもんな。きっと彼はやるだろうさ、あの演出を。あぁ、もう放送時間が終わりに近い。きっと最初に死ぬのは、一の谷の名無しさんだろーなー。(ひ、ひどい…w)

黛りんたろう氏は、何年か前から、大河の演出を手がけており、彼の得意技は、花や葉などの植物を、巧みに使った演出なのです。さっきから、戦場には、白い花びらが舞っています。いま、真白き花が、咲いているんだね、この森に。と思っていたら、宍戸錠、案の定、一の谷の名無しさんが、やられました。背後から鎖骨まで貫いた剣。どろっと赤い血が、襟元に飛び出る。水溜りに倒れ込み、絶命。
駿河の次郎、顔面に流血し、雄叫びあげ、絶命。白い花畑に、山間(さんかん)の片隅に、大海原からやって来た、海賊次郎の亡骸(なきがら)が、横たわる。飛び散る花びら!血のケガレの赤と、花咲くハレの白の対比。
見事なり、黛りんたろう氏よ。血を血として描いた、これらの描写は圧巻でした。
伊勢の三郎、ナンちゃん年中毛皮チョッキも見納めです。カニカニカニ、の物まねをして見せる、山賊あがりの最後。死してまで、笑顔で。ナンちゃん、タッキーのそばに、ずっといてくれて、ありがとう。

んん?ガラマニは、あと一人の死について、書かないのかって?あと一人って、誰?

喜三太。

…あのね。俺ね。最終回見ててね。ぜんぶ、悲しかったけどね。本当に泣いちゃったのはね、一回だけなの。

それが、喜三太が死ぬシーンでした。

あのね。最終回視聴にあたってね。ティッシュ箱、用意しといたのよね。エリエールローションティッシューアミノ酸プラスを、手元にね。それを、手にせざるを得なかったのは…彼でした。

ひ、卑怯。喜三太、卑怯です。なに、その名演技は。なに、その名セリフは。

「第一の…家来の…座は…弁慶に、ゆずり、たい。遠慮ぉっ…する、な…」

俺さ、ずっとあんたのこと、存在感ないとか、喜三太いらねーじゃんとか、顔ヌートリアとか、変質的くせものとか、さんざんに言ってきたんだよね。そんな俺の悪口(あっこう)について、ウェブ拍手で、喜三太ファンの人にご意見もらって、ビビったりしたんだよね。俺、地味なあんたのこと、アウトオブ眼中だったんだよね。なんでこんな奴が、義経の最初の子分で、ずっと付いて来てるんだよって、思ってた。壇ノ浦で瞬死するかなー、なーんて思ったりした。(ちなみに、あんたが電車男だということはさっき知った。)

喜三太よ。あんた…最終回で、花ぁ、咲かせたね。俺ァ、泣いたよ。矢が、ぶす、と、背中に刺さって、ゆっくり倒れ込む動き、表情の変化。生き物が、生気を失う瞬間は、そんなふうになるって、どうしてそんなに、精緻に表現出来たの?あまりに見事すぎる。顔がアップになって、弁慶に看取られる。黒目がちな瞳が、開いたまま光りを失った時。分厚いくちびるがうつろに開いたまま、逝ってしまった時。俺、わかったんだ。片想いを遂げられず、いつもすみっこに追いやられていた、あんたが、一番、辛かったんだねって!

さて、喜三太の死に、涙していた俺に、続けて叩き付けられる、いよいよ…弁慶と、主人公義経の、最後。小さなお堂に入る二人。君主独りを、独りで守り抜かんと、外に出る弁慶。お堂の奥の間に、差し込む、朝の、日輪。一の谷で、屋島で、壇ノ浦で、名声を極めた、源の九郎判官義経の…此れが最後の場所か。最後とは…なんぞや?

「清盛様も、夢、半ばでございましたな。」

壁に当たる日論を、夢の屏風と見た義経が、こうつぶやいた時、彼は、「大人」になったな、と思いました。彼とは、滝沢秀明氏であり、牛若であり、遮那王であり、九郎であり、判官であり、源義経その人のことであります。

彼は、自らの「死」を、眼前に迎えて初めて、志半ばにして死した、「父」清盛の気持ちが、わかったのです。亡き父の「死」を、理解した。死にゆく人の、気持ちが、自分が死ぬ時になって初めて、わかった。

「死」って、なんでしょうか。それは、生きるということです。生きるとは、現在時刻を重ねることです。しかし、時間とは、それ自体、意味を持たないのです。ガラマニが書いた小説より、引用します。

「時計は時刻を刻み、私は命を刻む。分や秒とは、それ自体、意味を持たない。時間とは、歴史を生み出す者ではない。時間は私の中に在り、積む時間、過ぎる時間に、意味を持たせる者は、時計ではなく私なのだ。」 「月下の花」第20章 より

義経は、死を前にして、悟ったのでしょう。歳を重ね、死んでいくことの、価値を。死とは、ただ自分の時刻を終えるだけなのではない。懸命に、命の灯火(ともしび)を燃焼し尽くして、生くることの、真価を、彼は知った。
我が生きてきた道、いま終わらんとするこの生涯こそ、「新しき国」への、「冥土」への、道しるべであったことを!

「新しき国。夢の都は、我が胸に、しかと御座いますぞ!」笑顔

タッキー… 「大人」に、なった、ね。貴方の顔に、しわという名の年輪が刻まれていたのを、見たよ。タッキーは、もう少年スターではなくて、男優になったんだね。歳を取ること、年を経ることが、喜ばしいことなのだと、貴方は、俺に教えてくれた。貴方と一緒に、一年間。俺もひとつ、歳を取って、よかったと、思ったよ…

そんな彼のもとに、弁慶が来てくれました。二人の今生の別れです。

「もはや、おさらばでござりますかっ?!」←俺たち視聴者の代弁

そして、源義経、自刃す。

いざや逝かん、「新しき国」へ、「冥土」へ!

ここでアシュケナージのオープニング曲が!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・か 感動

するはず、が、 お    おぉい

お堂の屋根、閃光が突き破る、は、いいが、効果音が。

爆発音 ドゴーッ!屋根瓦吹き飛ぶ バフーッ!白馬空中に現る ボヨーン!

すみません、黛りんたろう氏… ドゴー バフー ボヨーン は…勘弁してくださぁい…透過光も、キラキラ光りすぎ。SFアニメじゃないんですから。(一瞬、オーラロードが開いたのかと思いゴホゴホ)興ざめしそうになりましたよ。あの白馬って、確か、一の谷の時も、天空に飛んできましたよね。義経の神聖美の象徴なのは、わかります。絵的には、いいです。でも、主人公が自刃した瞬間に、爆発音は、ちょっとぅー。せっかく、しんみりしてたのにぃー。

き、気を、取り直させてくれ、弁慶、頼んだぞ。おぉう、ついに来たぞ、「立ち往生」だ!

ドスドスドス。武蔵坊弁慶の、黒い胴体に、突き刺さる矢、矢、矢。ドス、ドス、ドス。倒れない、えぇい、倒れるものか、見よや、見よや。此れこそが、世に云う、「弁慶の立ち往生」なるぞ。オォッ、松平屋!みごと、見事なり。

立ったまま、微動だにしない弁慶の、死体。死体なんですよ。立ってるけど。もう死んでるんです。そこへ駆けつけた泰衡が、お堂に入り、もう死んでる義経を見つけたのでしょう、泣き叫びます。

泰「九郎どのぉおおおお お許しくだされ、お許し下されぇええええ」

その声を聞いた時、もう死んでる、立ったままの弁慶の、表情が、和らぎました。

いま、会えたんですね。あの世で。義経とまた会えたんだ!三度(みたび)生まれ変わっても、我ら主従ぞって、約束したんだもん。死んで、冥土でまた会えたんだね!だから、弁慶は、笑ったん、だ、ね…


素晴らしい最終回だったと思います。俺は、今年度の「義経」は、ひとの生死というものの、有り様を、丹念に描こうとした点が、特出して優れていると思います。「義経」の脚本が、一本筋を貫いたテーマは、生と死とは、なにか?だったと受け止めています。さっきまで、笑って喋っていた、あの人は、今、死んじゃった。という描写を、これでもか、これでもかと、微に入り、細に入り、描かれていたことを、見終わった今、ひしひしと感じます。

常盤御前を母とし、平清盛を父と思い、暮らした牛若。母と別れ、鞍馬で、美輪明宏せんせいのシゴキを受けた遮那王。自分で勝手に元服した、九郎義経。後白河法皇に、たぶらかされた判官。兄・頼朝の御為にと戦った、対平家戦の数々。

俺が見た、今年の大河には、

鶴見辰吾演ずる、宗盛たんがいました。彼の涙目ヒステリーが、忘れられません。

「御座船をかためよ!主上ぉを、お守りせよぉおお」

美少年カゲスエたんが、いました。彼の、屋島の戦いでの、勇ましさが、忘れられません。

小泉孝太郎が、優れた俳優であることを、知りました。彼の名セリフ、
「掲げる白旗は、まさしく源氏ぃッ!」が、忘れられません。

壇ノ浦で入水する、平家の女性陣の、気高さが、忘れられません。

佐田啓二のクローンこと、中井貴一が、大河史上、傑出した源頼朝像になったであろうこと、財前直見が、女狐・北条政子を見事に演じきったことが。

千鳥さんがミニスカすぎであったことが。

静御前の、「しずやしず」の舞いが。

最終回の…最後の、最後に…鞍馬の山道を歩き、白き衣(ころも)を身にまとった、少年のまぼろしを見つめていた少女が…

たった一人、残された、うつぼちゃんであったことが。


2005年という年は、俺にとって、激動の年でした。多くの存在を、失いました。俺が最も悲嘆に暮れていた時期、初夏に、この「義経」感想文コォナァを、始めました。そして、毎週日曜日、休まず、今日まで、書いてきました。俺がたゆたえども、俺の「義経」感想文は、沈まず。私生活で、苦しいと感じた時に、薄幸の義経を見て、感じたことをそのまま、ここに書いてきました。書く行為が、苦しいと感じた日にも、書いてきました。つまり、休まず書くことが、悲嘆していた俺を、救ったのです。いつの頃からか、俺は、義経に、自分を重ねていたのです。

戦う義経がいました。友と笑いあう義経がいました。妻を愛する義経がいました。母を失う義経がいました。信頼していた人に裏切られる義経がいました。絶頂の、義経がいました。落ちてゆく義経が、いました。そして、死にゆく義経を、今日、俺は、見送りました。

生きるとは、苦しいものである。苦しさの中にあって、常に「新しき国」を夢見ていた、義経。日本史上に、悲劇の英傑と名高い、源義経の生涯とは、人が生きていくことの意味を、我々に物語るものだったと、感じています。若くして死した彼は、幸薄い人だったでしょうか?

いいや。言ってたじゃないですか、彼は。笑いながら、こう言ってくれたじゃないですか。

「新しき国。夢の都は、我が胸に、しかと御座いますぞ!」

義経、ありがとう。俺も、懸命に、生きるから。

そして、本日まで、ガラマニの感想文を読んで下さった、読者の皆様、本当にありがとう御座います。「読みに来て下さる人が、いるのだ」という思いが、俺を支えてきました。皆様のおかげで、最終回まで、書ききることが出来ました。

今年は、いい年でしたよね。

( 完 )

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