「月下の花」

第10章 さらば、我が不滅の恋人〜完結編〜


 ケミ城を見上げる、夜営の陣で、椅子に腰掛けていたビショットは、城から戻った兵の、報告を聞いた。親衛隊員を一名、生きて捕えまして御座います。

 ビショットの前に、緊縛され、地面を引きずられて来た若者は、あの軍事演習の日、廊下で、アトラス隊長の物まねをしていた人である。「ガラリアはなぁ、なぁー、わたしのことを、アトラスぅーって、ぅー、って伸ばして言うのが、これまった〜たまらんのだぁ」とおどけていた、あの人である。彼の体には、既に数発の弾丸が撃ち込まれていた。
ビショットは、物まねの彼を、見下ろし、血のついた顔を、靴で蹴り、

「兄はくたばったか?城内に立て篭もるから、様子がわからぬではないか。ううん?どうなのだ、その方。我輩に報告せい」

かつて、面白おかしい物まねで、仲間を笑わせた人は、血を吐き、ビショットを睨みつけ、くぅ、と嗚咽した。青年のその表情から、兄の毒殺成功を悟った王弟は、ハ、ハ、ハ、と乾いた声で笑い、なお、彼の顔を踏みつけた。靴の下から、若者は吐き出した。

「おのれ、卑怯な。新薬と称して、毒をもるとは。陛下のお薬を、自ら試していた侍医殿まで亡くなられた!」

「ひっかかる方が、愚かなのよ。アトラスの配下にある者は、ガロウ・ランすら、金も脅しも効かぬとなれば、我輩の仕込みとわからぬようにしたまでよ」

 ビショットは、兄王の侍医の、薬品の仕入れ先に目をつけた。薬商人に化けた間諜が、約1年前から、ギブン領の薬屋に売り込む。巧みに信用させ、ビショットの間諜とギブンの薬屋は、なじみになっていった。最初に、ハッタ王が口にしていた薬は、常用性があり、副作用に偏頭痛の出る物だった。

 王にこの症状が現れると、間諜は次の薬を出した。例のエ・フェラリオからの知恵、地上で使われている、頭痛がたちどころに治る新薬であると言って、とどめの薬物を売りつけたのである。ギブンの薬屋は、良薬と信じて、クの侍医に勧めた。これは、飲み始めには、確かに頭はすっきりするが、間諜が付けた処方箋は殺害用であり、その量を常用すれば、何日か後には、全身から血が噴き出し、一気に死に至るのだった。

 ビショット・ハッタの、二段構えの毒殺、将来を鑑みた戦法の採用、こうした長期に渡る計画性は、彼の用意周到な性格を、端的に表していると言えるだろう。

「ギブン領をうろついておるエ・フェラリオの噂が、こうも役に立つとはな。それで?あやつはどうしたか、アトラスは!姿が見えぬが、逃げたか。それとも諦めて自決でもしよったか?」

弾丸の入った内臓の痛みに耐え、若者は、血で喉を詰まらせても、隊長への侮辱を許さない。

「あ、アトラス様は、我らは…逃げはせん!最後まで…最後まで、生きろと、隊長は言われた!」

「ふん、カスが。もうよい。おーい、これは用無しじゃ」

ビショットは、彼の処刑を命じた。物まねの上手かった若者は、自分の額に突きつけられる銃口を見ながら、隊長が、右肩に重症を負い倒れた時の、その言葉を反芻した。

「皆の者、最後まで諦めるな。生きろ!生きる為に、闘うのだ」

(何十年も生きるんだ。俺はじいさんになっても、子供たちに、アトラス様はこんな方だったと、物まねして見せたいんだ)

 そして、若き青年は、二度と目覚めない眠りについた。




 夜陰に燃え上がるケミ城の頂上は、塔のわきに長い回廊があった。石造りの塀を、下から見上げたビショット軍と、生き残っている親衛隊員は、暗闇に赤く浮かび上がる城に、頂上の広いバルコニーに、2人の<騎士>が現れたのを見た。両軍の兵士たちは、目を見張り、喚声をあげた。

「一騎打ちだ!指揮官同士の一騎打ちだぞ!」

「おお、あれは、バーン・バニングスと、アトラスだ!」

「見ろ、アトラスには片腕がないぞ!」

遠目に、アトラスの薄茶色のマントがひらめき、バーンの紺色の軍服が討ちかかるのが見えた。石造りの手すり際に、ドレイク軍騎士団長ミズルが立ち、老獪にして威厳溢るる声で、号令した。

「皆の者に告ぐ!騎士道精神にのっとる、こは、決闘である。立会人は、それがしミズル・ズロム!他の者、手出し無用。よいな!」

見上げる青年たちは、ミズルの威厳にも、畏敬の念を抱いたが、その声を待たずとも、あのふたりが…初陣ながら、精鋭・親衛隊を見事に打ち砕いたバーンの気概、そして…重症をものともせず立ち回り、一歩も引かず、いやむしろバーンを圧倒しているアトラスに…ビショットの兵すら、感歎を禁じえず、凄まじい両雄の闘いを、息をのんで見上げた。

 遠目にも、片腕のアトラスは、獅子が如く、王者が如く、バーンの前に立ちふさがっているのがわかった。立ち向かうバーンも、青い長髪を振り乱し、果敢に挑んでいるようだった。

 しかし…バーンは焦っていた。

(剣が届かぬ。わたしの出す手は全て読まれている。左手だけの剣に、アトラスに、歯が立たない)

 戸惑えば、隙を突かれる。アトラスは、ぐらついたバーンの、胸あての甲冑をザクッと切り裂いた。

「うぐッ!」

うなったバーンの胸板に、血がにじみ、肋骨に激痛が走った。初陣の今日、バーンが初めて、敵に負わされた傷である。

「このくらいで、悲鳴をあげるとは、その方、それでも騎士か」

アトラスの口調は、極めて冷たく厳しかった。バーンは、アトラスの腕前に気力に、そして此の期に及んで、失わない冷静な態度に、悔しさで、奥歯を強く噛みしめた。負けたくない、この男には。

「アトラス、お前は、わたしが倒す!それがわたしの任務なのだ」

両者の剣と剣が、キン、と音をたて交わった。切っ先を通じてアトラスの腕力が伝わる。アトラスは、その太刀と同じ、鋭い声音で言った。

「違うだろう、バーン。わたしはもはや、王陛下の御為に闘っているのではない。部下には、命を粗末にするなと命じた。」

「だから、なんだ。部下の命乞いか。我が警備隊員にだとて、死傷者は出ておるわ!」

「この決闘は、彼女のためだ。わたしはお前にだけは、ガラリアを渡さん」

アトラスの憤怒の剣が、またバーンに振り下ろされた。退いてかわしたバーンは、

「その体で、生き延びられると思うてか、アトラス」

これは強がりであった。バーンは、

(つ、強い…奴は強い!アトラスは、わたしを、死出の道連れにする気でいるのだ)

と確信した。わたしにガラリアを渡さぬだと?彼女は初めから、わたしではなくこの男を選んだというのに。

 そんなバーンの逡巡を見透かすアトラスは、我が、心の臓が持ちこたえるは、あとどれほどか…血流は、体のあちこちで破れ、腹の中では臓物がちぎれ、残った左眼もかすんできた。ガラリア…

 ガラリアの姿が浮ぶ。青い髪が、無邪気な微笑みが、白い肌が、彼女の声が、いとおしい。

 ああ、ガラリア!我が最愛の人よ、会いたい。痛い…痛い、痛いよ、ガラリア。痛い!とても、苦しいんだ。抱いておくれ、君のかいなに抱かれたい。どうか、苦しむわたしを抱いておくれ。

 死にたくない。愛するガラリアと供に、生きたいのに。

 わからぬか、バーン・バニングス。

 わたしの方こそ、ガラリアの心から、お前を追い出すのに必死だったことを。

 彼女を愛す故、彼女と出会ってしまった故に、わたしこそが、誰よりもその方を、激しく嫉妬したのだということを。

独りで死ねるものか、みすみす、この男に渡すものか。わたしは、若造に恋人を譲り、笑って死ぬほど、老いさらばえてはおらぬのだよ。ましてや、バーン、そしてガラリア、わたしたちは戦士だ!いや、生きる者は、皆、戦士なのだ。

譲れぬものがある。それはこの心だ。わたしアトラスは最後まで、彼女を、愛と呼ばれる心を求めた証に、この男と闘う。この命尽きるまで…バーン、そなたを見込めばこそ、譲れんのだよ!

死にゆく者は、悼まれても、抱かれはせんのだ。恋情を、人が激しく希求するは、それが、人生をかけるに値する、生命のいとなみだからだ。わからぬのか、バーン・バニングス。

「憎い。バーン、わたしはその方が憎い。殺す!」

「…やらせぬ。わたしは負けないッ」

「なんのためにだ。なんのためか、言え!!バーン!」

バーンの脳裏にも、あのあどけない少女の顔が浮んだ。

 そうだ。誰に言われずとも、わたしは決めていた。

誰が、わたしに命ずるか?彼女を見守れと。それはわたし自身の意志だ。彼女に、ガラリアに初めて出会った時から、そう決めていたのだ。幼いある日、悪童に、陵辱されかかっていた彼女を、わたしは助けた。

 彼女を犯す者は…何人たりとも、許さない。そうとも、あれからずっと、わたしは!

<わたしという男の、唯一の恋は、純愛は、彼女に在ったのだ>

 バーンは、アトラスに向かい叫んだ。その声は、もう少年ではない<男>の雄叫びであった。

「アトラス。よくも、わたしのガラリアに触れてくれた!その方は、我が手で、息の根とめてくれる」

黒髪の騎士が、ほんの少し、笑った。

「…よく言った、バーン…それでこそ我が宿敵だ」




ビショットは、そろそろケミ城は全滅であろうと思い、陣営の椅子から立ち上がり、王室のある塔を、遠目に眺め、ほくそえんでいた。そこへ、前線から、銃剣を携えた部下が駆けて来たので、ビショットの方から、

「どうじゃ、アトラスのむくろはあったか。討ち取ったのであろうな」

と下問したが、銃剣兵の言う事を聞いたとたん、狐目の痩せた男は、怒りに狂い、叫んだ。

「なん…なんだと!なにが、なにが決闘だ、なにが、ミズルの厳命だ!大将は我輩であるぞ!ええいッ、小ざかしい、愚かしい者どもが!うう、おのれい、アトラスめ、まだ息をしておるとは、アァーッ!」

ビショットは腰にあった剣、小奇麗な、汚れ一つない真剣を抜き、「バーン殿とアトラスが一騎打ちをしており、あまりに見事な闘い様にて、皆が見届けようとしております」と報告した兵の、首を、その場ではねてしまい、

「我輩が出る。銃砲隊、付いて参れい」




 決闘を見守るミズルは、アトラスの足元が、ふらついてきたのを見た。さもあろう、彼は、何時間も前に、息絶えていても当然な深手なのだ。気力だけが、恋人への想いだけが、彼をここまで持ちこたえさせているのだ。40歳代のミズル・ズロムは、1人の女性を求めて、命をかける若者2人を見ながら、遠い昔を思い出していた。さっきアトラスが言った言葉、「お前に、彼女は渡さない」…聞いたことがある台詞だ。

 そう、あれは…若かりし日。

 ある日、ある2人の男が、1人の女性をめぐり、立会人の前で、決闘した。正式に求婚するためには、立会人を1人もうけて、恋敵と一騎打ちをするのが、騎士の作法だ。一方の青年は、まるで弱くて、剣の腕では、強い方の相手にならなかったから、立会人の男は、宣告した。

「その方の負けだ。負けを認めて、剣を収められよ」

 だが彼は、何度打ち据えてられも、立ち上がり、敵わぬとわかっても、諦めず、言ったのだ。

「お前に、彼女は渡さない」

 この、3人の男の、昔話は、誰にも語られることはないのだが…

 バーン・バニングスは、アトラスの顔に、死相が表れたのをわかったが、それは一層、バーンの、騎士道精神を奮起させた。いける、勝てる、アトラスを討ち取ってみせる。負傷しておるとて、手加減するは、騎士アトラスへの無礼なり。バーンは、全力で剣をふるった。アトラスの息は、乱れ、白濁した右目から、血が流れてきた。

「勝つぞ、アトラス。我が剣に討ち取られるが、貴公への、たむけだ!」

闘う2人の若者を、バルコニーの端で、黙って見つめるミズルは、心の中で、語りかけた。

(そうだとも、バーン。アトラスにとどめを刺すのは、お前の役目だ。見よ、アトラスは未だ、全く気を抜かぬ。1年前、閲兵式で、アトラスが話したのだ。初志貫徹とは、言うは易く行うは難しと。彼は自分の言葉を、断末魔の苦しみに悶えてもまだ、忘れておらぬ。若き者たち、その志しを、まっとうせよ)

キン!キン!真剣が鳴る。薄茶色のマントが、夜風に波打つ。その空には、バイストン・ウェルの夜空に光る、深海魚の鱗(うろこ)が、きらきらと瞬く。ここは、生きとし生ける、魂の住みか、バイストン・ウェルである。




 バーンの剣が、何度か、アトラスの甲冑に当たった。甲冑の振動で心臓まで痛めつけられても、アトラスの決意は乱れない。諦めない。わたしは、バーンに、バーンにも、とどめを刺す。アトラスが剣を振り下ろし、バーンがかわした。バーンの青い髪の毛が、ひと房、切られ舞った。仕損じたか、まだだ、まだ闘う。自分の心臓の鼓動が、死出の旅へ誘い、鳴り響くのを聞き、アトラスは、ガラリアの姿を見ていた。恋人に語りかけていた。

「ガラリア…」

と、アトラスがつぶやいたのが、バーンにも聞こえた。

 ガラリア。君の名の、なんとかけがえ無きことだ。君に出会い、ひとめで恋に落ちた。初めて抱いた時、どれほど嬉しかったか。君がわたしの恋人になってくれて、わたしは、この世に、生まれてきてよかったと思ったのだよ。

…終わりなのか?もう君を抱けないのか?…血が、喉へ上がってきたようだ。声が出ない。

 あの赤き唇に、口づけする時、わたしは震えていた。

 壊れそうに、もろい、か弱い心を持つ君を、わたしは守りきれるのだろうかと、怯えていたのだよ。

 君が、いつもどこかに行ってしまいそうで、わたしは怖かったのだよ。

わかるだろうか、どうかわかってくれ。わたしは、君が好きで…ガラリア、君は、弱いのだ。まだ知らないのだ。ひとが、なんで生きるのかを。なんで生まれてくるのかを。

ガラリア、君を悲しませるね。だが、いつかは、わかってくれるだろう…悲しみも、苦しみも、全てが、生きている証だということを。その苦しみは、暗闇に輝くいのちそのものだということを。

語りたい、君に…ずっと君と…痛い…ああ、痛い、死ぬのは、こんなに痛いのだね、ガラリア。

 どうして叶わぬのだろう。ガラリア、君を抱いて毎晩眠りたかった。

 君に、告げたかった。わたしの妻になっておくれと。わたしの子を産んでおくれと。

 君とわたしは、両の翼となり、連理の枝となり、一緒に子を育て、何十年も生きるのだ…ああ…

 ガラリア、わたしのガラリア!なぜだ?なぜ、叶わぬか、我が切なる願いは。

そうだとも、愛する人と、日々安らかに暮らしたかった、それだけが我が願いだ!それが叶わないまま、


   わたしは逝くのか。


   愛しているのだよ、ガラリア!ガラリア、我が不滅の恋人よ!!


アトラスの上体が、ふらついた。数歩離れていたバーンは、剣を、アトラスの心臓に向け、とどめを刺すべく、大声で、彼の名を呼んだ。

「アトラスー!」

バーンの声を、アトラスは、愛する彼女が、自分を呼ぶ声と聞いた。青い髪をきらめかせ、パタパタと走って来るのさ、あの子は。ああ、わたしに手を振り、走って来るよ。おいで、ガラリア、耳元には、金色の耳飾りがゆれ、瞳はモス・グリーンで、声はソプラノでかわいくて。そう、あの声が、わたしの名を呼んでいる。

「アトラスぅー」

ぅーって、伸ばして言うのさ…



その時、パン、という、乾いた、銃声。その音はなんの脈絡もない、くだらない音。

アトラスの真横から飛来した銃弾は、彼の左のこめかみから、脳天を貫き、脳髄が石畳に飛び散った。頭部を失った身体は、棒切れのように、ばたんと倒れた。

 ふりかざしたままの剣を、手にした、バーン・バニングスは、見た。薄茶色のマントを下にし、横たわった、右腕がなかった<それ>は、顔の上半分を砕かれ死んでいた。

ガラリアが愛した、あの青い瞳は、眼孔から飛び出て、眼球は頬をつつ、とつたって耳の下に落ちた。ガラリアが、うっとりとすがった唇は、ひからびて、舌と歯がちぎれていた。ガラリアを魅了した、あの優れた知性は、粉砕された頭蓋骨から、ただの脳みそとなってあふれ、黄色い肉塊と化していた。ガラリアが、いや、彼に出会う誰もが羨んだ、あのつややかな黒髪は、吹き飛んだ頭蓋骨とぐちゃぐちゃに混ざって、石畳に散乱していた。

 見つめるバーンの思考は、動かなかった。背後で、ミズルが叫んでいる。

「なにを、なにをするか、誰だ!正規の決闘をする者を、よくも横から!」

2人の騎士が決闘していたバルコニーの奥、塔にある王室の窓から、狙撃したとわかったミズルは、撃った者を探し振り返った。ライフル銃を片手に持った、その狙撃者が、帽子をかぶりマントをつけた男が、バルコニーへと、意気揚々と、現れた。ミズルは、狙撃者に食ってかかった。

「ビショット・ハッタ殿!貴殿、なんという…バーンが勝負を決めようとしておったのに、あまりに、あまりにむごい!騎士の誇りを、なんと心得られる!」

 ビショットは、銃を、下級兵だけに習わせずに自分もたしなんでおく、我輩はなんと先見の明があることよ、と思いながら、援軍の指揮官に、無礼を言わせておくこともしなかった。

「黙れい、この戦争の、大将は我輩である!悠長に、一騎打ちなぞさせておれるか。戦時下に、誇りもなにもあるか!ええ?そうであろう、ミズル。この、むごい火器を我輩に勧めたは、その方の領主であろう」

ミズルには、これだけ言えば充分である。ビショットは、まだ、<かつてアトラスだった>肉塊を、呆然と見つめているバーン・バニングスに近づき、少しだけ優しい声音で、

「おお、バーンとやら。ご苦労であった。いやさ、見事であった。その方の活躍あってこその勝利よ。ラース・ワウに帰還し、ドレイク殿に礼を伝えてくれ。下がってよいぞ」

 バーンの耳は、なにも聞こえなかった。彼の手から、真剣が、ぼと、と落ちた。ついにアトラスの血のりをつけることができなかった、その剣は拾わず、青い髪の青年は、おもむろに、遺体のそばでかがみこんだ。バーン・バニングスは、独り言をつぶやいていた。

「…そうだ、な。なにがいいだろうか。そうだ…これがいい…」

 青い髪の騎士は、血にまみれた黒髪を、一房、拾い上げ、片手に握りしめて、黙ってその場を立ち去った。ミズルも、何も言わずに、バーンと並び、去って行った。

ドレイク軍の指揮官2名と、階段ですれ違い、ビショットの老臣と数名の部下が、駆けつけた。彼らの君主は、バーンが捨てていった剣を両手で持ち、仰向けで横たわるものにまたがり、

「ええい、こやつ、こやつさえ、おらなんだら、もっと早く王位は我がものになったのだ!」

と叫び、死体を刺していた。何度も、グサッ、グサッ、と刺していた。ちぎれた臓物が、飛び散った脳髄の上に、更に散乱し、どれが胴体だったのか足だったのかも、判別できない、ものを、なおも切り刻んでいた。腰の曲がった老臣は、おどおどと、ビショットの背後に寄り、震える声で、言上した。

「殿下…」

目を血走らせたビショットは、キィッと即座に振り返り、

「殿下ではない!陛下と呼べいぃ!」

「あぁ、陛下、ビショット陛下。ご無体な…あ、アトラスはもう、死んでおりますのに」

ふん、とビショットは、アトラスの血にまみれた、バーンの剣を投げ捨て、はらわたのかたまりを指さして

「このむくろは、犬の餌にせいッ!」




 ケミ城から出て行く騎馬隊、二つ。一つはミズルとバーンのドレイク軍。こちらの行軍は、ゆっくりとした足取りで、南東方向、アの国境への帰路にある。もう一つは、アトラスの戦死を見届けた、生き残りの親衛隊員たちだ。ビショット軍が、背後から追撃し、薄茶色の揃いの軍服が、馬を飛ばし、一路、東北の国境を目指している。追っ手の銃弾に、途中、何人も倒れた。敗走の先導者は、いつもアトラスに「お疲れですか、隊長」と言っていた、あの腹心の部下である。彼は、負傷した仲間が、

「俺はもうだめだ。置いて行け。アトラス隊長の、後を追うんだ」

と嘆くのを、叱咤した。

「隊長のお言葉を忘れたか。最後まで諦めるな。行こう、ミの国へ!ピネガン・ハンム陛下は、我らが隊長の無念を、おわかりになって下さると思う。アトラス隊長は、よく語っておられた。ミの国王は、知と理の筋道を、よく知っておられる御方だと」

 こうして、ミの国境へと辿り着いた、元・アトラスの腹心の部下たち。その数わずか7名。砦から、炎上するケミ城を視察していたピネガン王は、彼らから、事情を聞くやいなや、すぐさま砦に招き入れ、白湯を飲ませ、傷の手当てを施した。ビショット軍の追っ手は、国境を越え、砦内に保護された者には手出しできず、帰って行った。

 元・親衛隊員の7名は、ピネガンが、亡くなられた隊長と、さして年恰好の違わない、若き青年であるのを見たと同時に、王が、最初に彼らに言った言葉、

「ありがとう!よく来てくれた、ありがとう」

この言葉に…ありがとうだと?それは、助けてもらった、落人たる我らの台詞ではないか。銀髪の、凛々しい青年王ピネガンは、疲れひざまずく負傷兵に、かがみこみ、目を細めてこう続けた。

「生命の危機に瀕し、よくぞ耐えて、ここまで来てくれた!諦めず、生き延びようとした時に、我が国を頼ってくれたとは、なんと嬉しいことだ。礼を言うぞ」

敗走を先導していた、アトラスの腹心の部下は、嗚咽し、この王に拝礼した。俺を置いて行け、と言っていた負傷兵も、惜しみなく涙を流し、夜空を仰いだ。

「隊長…おお、アトラス隊長!あなたが言われた通りです。俺、おれ…生きてて、よかった」




 ミズルの黒馬の後方を、栗毛は歩んでいた。栗毛の騎手は、手綱に片手をのせているだけだったが、栗毛は、自分の任務をよくわかっていた。ラース・ワウへ、帰りましょう。わたくしが運んで参ります、ご主人。他の馬には、御遺体を運んでいる者も、おりますね。皆、軍馬ですから、居城までの道は、わたくしども馬に、お任せ下さいませ、ね、ご主人。

 ずっと口をきかないバーンの、胸あての甲冑からは、しとしとと、鮮血が漏れている。深手ではなかったが、部下に、せめて止血なりともしませんと、傷跡が残ります、バーン様、と言われても、黙って首を振るだけだった。切り傷に包帯もせず、黙って行軍しているのは、栗毛も同じだ。

 そうだ、あの男が、馬のことを、言っていた。

 「見てごらん、君たちがケンカすると、馬が悲しそうな顔をしているよ」

 クの国とルフト領との、国境に来た。あの、彼の別荘の城門をくぐる時も、バーンは黙りこくっていたが、領内の森に入ると、急にこう発言した。

「ミズル殿、少し、隊列から離れます。すぐ戻ります」

騎士団長は、うむ、とだけ言った。

 バーンと栗毛は、森の、茂みが深い場所に来て、片手を握りしめたままの乗り手が、それを落とさないように、馬から降りた。バーンの探し物が、あった。深緑色の葉の中に、一輪だけ咲き残っている花。ピンク色の、大きな花弁、ポロポーズの花。それを手折ると、バーンは、手の平に持っていた、黒髪一房を、花の中心、おしべとめしべのある中に、ふわりと入れた。そして、ピンク色の花びらを丸め込み、髪の毛を包んだ。




 ガラリアは、夕餉が終ると、ニー・ギブン一行を、イヌチャン・マウンテンの裾野まで、騎馬隊を率いて送り、ラース・ワウに戻って来ていた。ガラリアの愛馬の、赤毛は、興奮がおさまり、大人しく私の言う通りにしていた(赤毛は、悲しみにうなだれていたのだが、ガラリアは気がつかなかった)。

「妙だな」

祝宴の後片付けで、まだ忙しい大広間に入り、ガラリアはきょろきょろと、働く大勢の人々を見渡した。

「客人には、宿泊を勧めると思ったが?夕餉の宴もたけなわになって、急に、お館様は私に、客を帰せと申し付けられた。ひょっとして、お館様は、リムル様とニーが、気が合いすぎておるを見抜き、ただならぬ仲になるを、敬遠されたのであろうか。まさかな、いくら心配性の親とて、そこまでせぬわ。となると」

 ガラリアは、夜半にさしかかろうという時刻になって、ようやく、城の奇妙なことに、気がついた。

 まず、いつもなら、とうに帰還しているはずの、バーンの警備隊が、まだ帰って来ない。そして、お館様、奥様、姫様が列席する行事だというのに、騎士団長のミズル殿が、知らぬ間にお出掛けとは?バーンはどうしたのだろう、ミズル殿は、こんな日に限ってどこへ行かれたのだ、と、皆に尋ねても、わからぬと言う。

 大広間のガラリアは、大勢の召使いが、テーブルクロスをはずしたり、ミュージィ・ポウが、クラヴサンを運び出すよう命じたりしているのを見ていた。そこへおもむろに、ドレイクがやって来た。ガラリア含め全員が、作業の手を止めて、敬礼しようとしたが、ドレイクは、たいそうご機嫌に微笑み、

「よいよい、そのまま続けよ。本日はご苦労であったな。リムルとルーザはもう休んでおる。皆の者も仕事を済ませ、早く休むがよい。わしは少し、ここで宴の、終わりを眺めておるから、気にせずともよい」

ドレイクは、リムルが幕を上げて登場した、舞台中央に、自分で椅子を持ってきて、ふうと嘆息し、座った。

 召使いたちは、まあ、今夜のお館様はなんと、和やかなこと。下働きの様子を眺めたいなんて。姫様がお楽しそうだったから、ご機嫌なのかしら、と微笑み合っていた。

 ミュージィは、男の召使いに、大事な楽器を持ち上げさせ、廊下へ、運ばれる楽器に寄り添って、出て行った。会場は、次々と、美しい家具や、きらびやかな飾りが取り去られ、段々、がらんと寂しい感じ、になっていく。ガラリアは、お館様が、気にせず作業せよとおっしゃったので、黙って外に出ようとした。すると

「ガラリア・ニャムヒー。」

それは低いが厳しい声だった。呼び止められたガラリアは、ビクッと振り返り、慌てて、膝まづいた。

「は、お館様!」

「その方は、わしのそばにおれ。」

「ハ…?あ、はい。」

ドレイクは、肘掛け椅子に、両肘をつき、両手指を鳴らした。視線はガラリアへやらず、じっと、正面玄関を見たまま、低く話した。

「よいか、ガラリア・ニャムヒー。うたげは終った。その方は、ようやった。」

ガラリアは、ドレイクが自分をご下問するのは、祝宴の幹事を務めた事への、お誉めなのだ、と思った。

「ありがたき幸せに御座います、お館様。」

「うたげはのう、終ったのだ。これからが、そなた、ガラリア・ニャムヒーの任務の始まりである」

「ハ…?あ、はい、では、次に、なにを…」

ガラリアは、なにか別の業務命令があるのだと思った。業務命令。これをこうせよ、という<行動>を命じられるのだと。

ドレイクは、先ほどから、意識して、彼女を<ガラリア・ニャムヒー>と、苗字つきで呼んでいた。それは彼女の領主としての、残酷さでもあり、優しさでもあると、ドレイクは考えていた。

「ガラリア・ニャムヒー、よいか…これから、なにが起こっても、わしが下がってよいと言うまで、この部屋から出てはならぬ。なにがあっても、わしのたもとに、控えておれ。これは、命令である。」

なんだと?

ガラリアは、ドレイクのこの言から、尋常でない緊迫感が伝わり、さっきから感じていた、全ての疑問が、複雑に絡み合い、一個の符号で結ばれている事に、気がついた。

(なにが起こっても、だと?なにが起こるというのだ…うたげは、終った。あんなにきらびやかだったこの部屋が、どんどん、殺風景になっていく。賑やかだったから、余計に、寂しく感じる…客が来た時もう、ミズル殿が、いなくなっていた。バーンは…帰って来ない、クの国境に行ったまま…クの国に…ああ、夜になり、客を、急いで帰らせた。これら全て、お館様がさせた事だ…

 ああ、そうだ、おかしな事があった。

 夕餉の始まる直前、空が暗くなった時に、馬が、赤毛が泣いていた!)

 そうだ、あの人が、馬のことを、言っていた。

 「見てごらん、君たちがケンカすると、馬が悲しそうな顔をしているよ」

 その馬が、泣いたのだ、あれは、つがいの栗毛を呼んでいたのだ。栗毛が帰らぬ、バーンが、帰らぬ!

 ドレイクの裾で、ガラリアは、垂れ目をより一層垂れさせ、ビクビクと大広間を、また見渡した。正面玄関は、開け放たれ、暗い外の闇が、屋内の照明の真中に、大きく口を開いている。真っ黒な口が。人影は、まばらになり、床掃除をする、数人の女召使いと、ドレイクとガラリアだけになっていた。膝まづいているガラリアは、うつむき、赤い絨毯の刺繍を数えた。

(考えすぎだ。ドレイク様は、なにか気まぐれを仰っているだけだ。ミズル殿とバーンも、姫様の誕生会より、大事な、別の用事が、遅くなっているだけだ。そうさ、フラオン王がはしかにでもなったとか!ふふ、バカだな、私。今日は疲れたのだ。緊張しすぎて、思考がまともに働かなくなっているだけだ。その内に、ケロリと、帰ってくるんだ…

ミズル殿、バーン…私の大切な人たち。母と私を助けて下さった人、いじめられる私をかばってくれた、私の、初恋の人、そして…
私の恋人、アトラス。唯一人、私を抱く人、アトラス。手紙が、明日にでも、届くのだ。水色の封筒が。そうさ、来週また会おうって。そうさ、もうすぐ、もうすぐ私の気にしすぎだって、わかるのだ)

 金糸の刺繍が、ひい、ふう、みい、と数えるガラリアと、玄関を見ているドレイクが、並ぶ大広間。

 しゃがみこむ、うつむいたガラリアと、椅子に腰掛け、開いた入り口をじっと見つめるドレイク。

2人の待ち人が、やって来た。玄関で掃除をしていた、若い女召使いが、

「キャアーッ!バーン様!ああバーン様が!」

悲鳴をあげ、女は手にしていたほうきを落とした。見知った副団長、いつも清楚な身なりで、いつもは清々しい青年が、入場して来たのを見ただけで、女は悲鳴をあげたのだ。

 彼の、軍服は全身血まみれで甲冑が裂け、青い長髪は振り乱され、あちこち切れて血のりでべったりしている。さやだけになった帯刀が、腰あての甲冑にカン、カンと当たる。そして裂けた胸元から、彼自身の血潮が流れている。そして頬は、死人のように青ざめているが、顔は、鬼神の形相である。赤茶色の瞳は、にぶく光る、血の玉に見えた。片手に、皮革製の書簡をしっかり持っている。

 闘いから帰還した男は、真っ直ぐに、命令を下した者へ向かった。領主は、座ったまま、部下の報告を待った。バーンは、ドレイクだけを凝視し、わきにしゃがんでいる…彼女は、見ずに…血まみれのバーン・バニングスの、凛と冴え渡る声が、いつも通りの声が、広間に響いた。

「ドレイク様、バーン・バニングス、只今帰還致しました!」

「うむ。」

 ドレイク・ルフトは、寸刻前に、ミズルが先によこした伝令から、概要を聞いていた。北側の小窓でこっそり聞き、ルーザに「首尾よう運んだ」とだけ伝え、ガラリアのいる大広間に来たのである。この度の派遣隊の、ミズルはお目付け役であって、指揮官は、この、初陣の青年である。全ての報告は、バーン自身が言うのが、任務である。甲冑を鳴らしてバーンが額づくと、絨毯に、血のしみがついた。

「クの国境にて、お館様の命令書、受け取りまして御座います。即刻、ケミ城へ走り、ビショット・ハッタ陛下の、」

陛下と、よどまずバーンは言った。ガラリアは、垂れ目の、うつろな視線で、バーンの胸の傷を、見つめているだけだった。

(ああ、あれは、血だ。バーンの、血だ。バーンにも血が流れていたのだな…)

ガラリアの吐息は、半開きの下唇から、ふぅ、ふぅ、と力なく漏れている。

「ケミ城攻撃に参戦し、ご命令、果して参りました。ハッタ前王と、親衛隊…」

バーンは(うつむくな、ドレイク様を見るのだ、つまるな、声をつまらすでない)、瞬きもせず、そして、目を一層見開き、これはわたしの役目だ!と、ガラリアを見ずにガラリアへ向けて言った。

「親衛隊長、アトラス、討ち死に!王室親衛隊は、全滅であります。ケミ城は、ビショット陛下の掌中に落ちまして御座います」

 バーンはなにを言っているのだろう。

 ふふ、バカだな、私。今日は疲れたのだ。私の、頭がおかしくなったのだ。そうだ、夢を見ているんだ。よくあるさ、夢だ、悪い夢だ、早く覚めてと思っているうちに、案の定、目覚めて夢だったとわかるのだ。あれ?バーンの後ろに、いつの間にか、ミズル殿が膝まづいている。母の恩人の甲冑も、血まみれだな…ふぅ、早く目覚めないかな、いやな夢だ…ガラリアを揺り起こす者は、領主だった。

「うむ、ようやった、バーン・バニングス。して、アトラスの亡骸は確認したのだな。その方に特に言いつけた件だ。アトラスは、どのような死に様であったか。」

バーンは、今夜ラース・ワウに帰り、初めてガラリアの顔を見た。白い。白い頬、赤い唇。薄緑色の瞳の、瞳孔は開いたまま、彼女の視線は、わたしを向いている。視線は向いているが、彼女の心は…

 言いたかった。このわたしが、彼を殺したのだと!ミズルは、黙ったまま、バーンの背中を見ていた。

「アトラスは、わたしと、剣にて、一騎打ち致しておりました。アトラスは、既に銃撃を受けた、深手でありましたが、こと切れるまで…獅子が如く立ち回っており…わたしは抗戦しましたが、」

「黙れ、うそだ!」

覚醒した少女は立ち上がり、3人の上官の前で、激昂した。泣いてはいない。ただただ、怒りにまかせて怒鳴っている。みんながいじめるのだ。うそをついて、私をいじめるのだと。

「うそだ、うそだ!なぜ、我が軍が、ビショットに、組みするのだ、同盟はク王室と、あ、アトラスと交わしておったはず、うそだ、う…」

ミズルが注意しようとしたのを、ドレイクは、片手をふって制し、ニャムヒー家の後継者に、申しつけた。

「ガラリア・ニャムヒー、わしは控えておれと、命じたであろう。発言は許可しておらぬ!それで、どうなったのだ、バーン・バニングス」

ドレイク軍副団長の、死人のような顔は、ますます生気を無くし、青ざめていったが、彼を痛めているものは、胸板の傷ではなかった。

「はい、わたしと、アトラスは、闘っておりました…闘っておりましたが、とどめとなりましたのは、わたしの剣ではなく…ビショット陛下の撃った、弾丸でありました。アトラスの亡骸は、」

バーンは、唇をかみ、鼻で息をした。死者の恋人は、発言を制されたままの所作で止まっている。

「アトラスの亡骸には、右腕と頭部が、なくなっておりました」

黒髪。私のこの手の平で、なでた黒髪。髪の毛と髪の毛の間に、指と指をはわせて、この乳房に、抱き寄せた黒髪。彼の、たくましい腕。私の裸身を、初めて抱いた人の、しっとりと黄金色に輝く、肌。触れた、触れられた感触が、ありありと、私の体に満ちている、あの人の体。なくなっておりました。とどめは、弾丸でした。バーンが…バーンは…お館様の命で、私の恋人と戦争をしてきた。私の彼は、

  死んだ?アトラスが、死んだ?私の、一番、大切な、ひとが。

死んだ。アトラスが…うそだ、これは現実ではない、だって彼の感触が、私の体にあるのだ。

  彼を思い出すだけで、体の芯が熱くなって、肌と汗の匂いがする。

  彼の声が、聞こえるのだ、今聞こえるのだ、

 「ガラリア、また会おう!」

  って、や…約束したんだ。

棒立ちになっていたガラリアは、歩いて「彼」の元へ行こうと思った。「彼」に会おうと思った。会いに行けば「彼」がいると思った。ふらふらと歩き、暗い玄関へ行こうとした。耳飾りも、ふらふらとゆれる。彼女を制したのは、また、領主であった。

「ガラリア・ニャムヒー。誰が下がってよいと言ったか!」

振り返った彼女の瞳は、ようやく、涙で潤んでいた。潤む声が、バーンにも聞こえた。

「…ドレイク様…なぜです?なぜ、アトラスを…」

上官に、なぜ、と問うてはいけないのが、軍隊である。今度は、ミズルが言いつけた。

「ガラリア、黙りなさい。お館様に意見する気か。座りなさい、バーンが報告をしておるのだぞ」

バーン、そうだ、バーンめ、よくも私の人を、よくも。アトラスをおめおめ死なせたのか、お前は、殺そうとしたのか、それを誇らしげに言うのか、よりによって、お前が、彼をか!!

 私をふった男が、私の初めての男を、奪ったと思っているガラリアは、ドレイクの前に、膝まづいているバーンに、つかつか、歩み寄った。バーンは、ガラリアの靴先を見てから、ゆっくりと立ち上がった。

 軍服についた血には、一滴も、アトラスのものはないのに。

 青い髪、アトラスの便箋によく似た、2人の男女は、視線をしっかり合わせて、向き合った。

 ミズルが、座位のお館様の御前で、仁王立ちしている2人を、やめさせようとしたが、ドレイクは目で合図し、領主と騎士団長は、立ち並ぶ青い髪の男女を、見ていた。

 ガラリアがどうしたか。いきなり右の拳(こぶし)で、バーンの頬を殴った。ガン!バーンは黙って殴られた。
彼の、じっと目を閉じた顔の、口角から、一筋、血が流れた。目を閉じたままのバーンの、口元の血が流れ落ちると同時に、ガラリアの瞳から、一筋、涙が、流れ落ちた。
ガラリアは、また、ガン!と殴った。バーンは目を閉じたまま、黙っている。ガラリアも黙っている。彼女の頬に、静かに、静かに、涙がつたい、落ちた。ドレイクが、低い声で言った。

「ガラリア・ニャムヒー。上官への、その行為は厳罰に値するぞ」

口内から出血しているバーンは、ドレイクに言おうとした。いいのです、と。だがガラリアが、3発目の拳を止めて、自分に向けていた目を、ドレイクに向けたので、黙って、耐えた。

 領主は、厳粛に、そして優しく、言った。ガラリアに語るドレイクの目線は、リムルに語るそれに似ていた。

「バーンは、軍人としてわしの命令に従った。そして果した。これは勇敢であり、且つ当然な行為なのだ。のう、ガラリア・ニャムヒー…この任務を、わしがそなたに命じたならば、そなたも、バーンと同じようにしなければならなかったのだぞ。そなたに、アトラスを殺せと命じたならば、そなたが、アトラスを殺さなければならぬのだ。それが、戦士である。騎士である。その方は女戦士であるな」

ミズルは…青紫色の甲冑を血のりで染めた、ガラリアの恩人は、嗚咽に耐えていた。
お館様、それを、それを今の彼女に言うのですか、あなたの口から。それが、彼女のためと、ドレイク様はお考えなのだ、わかるか、ガラリア。
ガラリアは、まだ右手はバーンにふりかざしたままで、ドレイクの目を見ていた。震えながら。

「よいか、ガラリア・ニャムヒー!わしが、アトラスを討てと命じたのに、もしもバーンが、従わなかったならば。バーンはなんと呼ばれるのか、その方が一番よく知っておろう!」

私が、一番よく知っている?バーンが、アトラスを討たなかったら?ドレイク・ルフトは、ガラリア・ニャムヒーに言った。

「それを、敵前逃亡兵と、呼ぶのだ」

  敵前逃亡兵。    敵前…逃亡…

続けざまにドレイクは言った。

「では、今宵はこれまで。バーン、ミズル、ガラリア・ニャムヒー、下がってよい。本日はご苦労であった」




 ミズル・ズロムは、1人、大広間を後にした。中庭に出た騎士団長は、夜空を見上げてから、家路についた。ラース・ワウから離れたズロム邸へと、家族の待つ家へと、帰って行った。騎士団長は、今夜は、無性に、妻と息子に会いたかった。

 ガラリアは、大広間の中、バーンと2人きりになっていたが、誰も見えていないようだった。泣いてはいない。怒ってもいない。ただうつろに、玄関へと首を向け、ゆっくりと外へ、歩いた。足取りは、夢遊病者のそれであった。バーンは、そんな彼女の、隣りを歩いて、付いて行く。彼には、まだ「任務」が残されていた。

バーンは、彼女の横顔に問い掛けようとした。後方の部屋の照明と、前方の夜の影が、白い鼻筋を映し出し、濃い睫毛が、濡れて輝く。美しい。夜の闇に、唯一つ光る、「地上の月」のように。今夜の彼女は、この世界で最も美しいひとであると、知りながら、バーンは言わなければならなかった。

「…ガラリア…」

「・・・・・・」

「…お前に渡すものが…」

「・・・・・・」

「聞いてくれ、頼む」

なにも聞きたくない。なにも聞こえない。信じたくないのだ、私の彼が、もういないだなんて。そうさ、これは夢だ、私はまだ夢を見ているのだ、悪夢を。早く、覚めてくれ。

バーン、私を見るな、話しかけるな、お前は、私に触れないでくれ!だって私は、お前を…憎んではならぬのだろう?それくらい、もうわかったのだ。だから?なにが、なにを…私はなにを求めて歩いているのだろう?

なにも考えられない、見たくない、聞きたくない、うそだ、あの人は死んでなんかいないんだ、私の恋人は、きっとどこかで生きてるのだ。バーンの報告は、なにかの間違いなのだ…

ガラリアの口は、自分の感情を素直に綴れないまま、動く。

「いいんだ。バーン、わかった、お前は軍務を果したのだ、わかったから」

「ん、うん、だが…話したい事があるのだ」

「…なんだ」

「アトラスの最後の言葉を、お前に伝えたいのだ」

最後と聞いても、まだガラリアは、彼の死を認めていなかった。だからこそ、聞きたくなかった。そんな彼女にとって、残酷であっても、バーンは、伝えなくてはならなかった。

 アトラスのために、というのは言い訳か?わたしのためか。あの時、彼の髪を拾った。ガラリアに、彼の壮絶な死に様、否、生き様を伝えたいと思った。伝えるべきだと思う。そして森で花をつんだ。彼女が、一番好きな色、ピンク色の花を。

最も美しい横顔は、生気なく正気なく、わたしを見ない。頼む、ガラリア、わたしがお前に、こんな風にすがった事があったか。わたしはお前に…バーンは、ふらつくガラリアの正面に立ち、うつむく彼女に、

「聞け。聞いてくれ。彼の最後は立派だった。最後まで決して諦めなかったのだ。生きることを!アトラスは、死する瞬間まで、お前の名を呼んでいた。お前のために闘うのだと、言っていたのだ」

正気を失っていたガラリアの顔に、覚醒の兆しが現れた。彼が、私を呼んでいたと。あぁ…28歳のアトラス。彼は、普段は落ち着いた大人なのに、抱き合うと、子供みたいにはしゃぐのだ。私のためにと、あの彼が言ったのか。…なんてかわいそうな…辛かったのだな、私に会いたかったのだな。かわいそうな、私のアトラス。

私は知っている、彼がどんなに優しくて、私を、愛してくれたかを。そうさ、あの人は、このバーンにだって、いつも優しかったじゃないか…

 彼女は、改めて、バーン・バニングスを見上げた。出会ってから5年、見つめ続けてきた彼の顔は、実戦を体験した<大人の男>だな、と少女は感じた。

 (だってバーン、お前は泣かないのだもの。)

 バーンは、軍服のポケットから、血まみれの甲冑の陰から、小さいものを取り出した。ガラリアは、あぁ、アトラスがくれる、誕生日プレゼントみたいだ、とぼんやり眺めた。バーンの手の平が開かれると、ピンク色の花びらが。くしゃくしゃの花びらが、自然にふわりと開いて、

「彼の遺髪だ…お前に、ガラリア…この花が、」

それがポロポーズの花であり、それを、男性が女性に贈るのが、どういう意味であるのか、バイストン・ウェルの住人は誰でも知っていた。

「この花が…ガラリア、お前への…彼の、気持ちだ。お前の恋人は、これを贈れぬまま、死んだのだ。アトラスは命を賭して、お前を愛したのだ。わたしは、彼を討ち取るのが、たむけだと思ったが、果せなかったから…アトラスはこれを、渡してくれと…だから…」

だから、わたしがお前へと、この花をつんできたのだとは、バーンは言えない。言えるわけがない。人はそれを、おいそれと言葉に出来ぬ故、<花>を贈るのだ。

 ガラリアは、花弁にのせられた、黒髪が。赤い血にまみれ、べっとり花びらに貼り付いた、彼の髪だったものを見た瞬間、彼女は、ようやく、はっきりと悟った。それは、生きてはいない物体の一部でしか、なかったから。あのたなびく黒髪が。あの人が!

(アトラスは死骸になったのだ!腕がちぎれて頭がなくなって…これが、現実だ!生きてはいないのだ。私を抱いた人は、いなくなったのだ。痛かったのだな、苦しかったのだな、死にたくなかったのだな!ああ、アトラスは…私に語る、静かな口調は、抱きつくと、あったかい、男の人は…この、血の破片と化した。

  これが、現実であるなら、私の人生そのものが、悪夢なのだ。

…お、お母様、お母様ぁ…死んじゃった。アトラス、アトラスぅ…いない、いない、お母様、アトラス…私を愛してくれる人は、みんな、みんな死ぬのだ。愛してくれる人は。私が求める人は。私が、抱かれたい人は。)

18歳のガラリアの、ふぅふぅと乱れていた吐息は、一回、止まり、そして吐いた。

  (もう恋なんかしない。もう、もう、誰も、愛さないッ!!)

 ガラリアの頬に、つつう、と涙が漏れた。声なく、彼女は動かず、涙だけが流れ落ちた。バーンに見せる涙は、2人の人生で、2回目だ。1回目は、2人が初めて出会った時、そして今日は?

 ショートヘアの青い髪を、ようやくゆらし、ガラリアは、バーンの手の平から、その花を、そっと、取り上げた。

 そして彼女が見せた態度は、バーン・バニングスを、地獄の戦場から帰還したバーンを、アトラスの戦死にうちひしがれているバーンを、更なる奈落の底へと、突き落としたのだった。

 彼女に泣かれ、責められ、殴られて、耐えていたバーンが、耐えられない地獄の奥底に。

 ガラリアは、右手に<花>を持ち、左手の服の袖で涙をさっと拭いた。目つきは、氷か、機械仕掛けの人形か。無表情の彼女は、こんな風に言った。

「先ほどは、手をあげたりして、申し訳ありませんでした。副団長、無礼をお許し願いたい」

 ガラリア…

「遺品を届けて頂き、御礼申し上げます」

 ガラリア、そんな…

「では、失礼致す」

きびすを返し、青い髪の少女は、パタパタと駆けて行った。後ろ姿が、暗闇へ消えていった。




 バーン・バニングスは、城壁の陰に、独り来た。石塀と石塀に囲まれた、狭い真っ暗な中庭まで辿り着いて、ガクッと、くずおれた。早朝から、深夜まで、激戦に耐えた男は、今日初めて、地面に尻をつけ、膝を抱えうずくまった。そして、彼は、この時、生まれて初めて、

  泣いた。

 バーンは涙を流して泣いた記憶は、今日までない。小さい頃から、男は泣くなと、父に教えられてきた。とめどなく涙が溢れて、心が切り裂かれる、こんな悲しみが、自分の人生に在るのを、今日初めて知ったから、彼は泣いた。

「うぅ、うぅ、くう…あ、あぁ」

もう誰もいないから、彼は声をあげて、泣いた。頬に流れる、大粒の涙が、血のりを洗い流す。涙は温かいのだな。もう誰もいなから、わたしは泣く。上官はいない。アトラスはいない、ガラリアは、いない。

「あぁ、アトラス…今日、大勢、殺した。みんな死んだ。アトラス、うう…アァッ!」

皆、死にたくはなかっただろうな。だが、ではわたしは、なんで生きているのだ。この苦しみに、なぜ耐えろと言うのだ、なぜだ、アトラス、教えてくれ!

「あ、あ、あ…ウワァー…アァー」

こんなになるまで、気がつかなかった。わたしは彼女を、ガラリアを、こんなに愛しているのに、気づかず、彼に譲ってしまった。そして、彼女のアトラスは、死して、もはや永遠に届かぬ処へ逝ったのだ。

せめてこの手で討ち取れたなら、騎士として、我が闘いを、誇りと呼べただろう。わたしの女を奪ったから、決闘したのだと。だが、この手にかけられなかったのだ。片腕のアトラスに、我が剣は、傷一つ負わすことなく。

 負けたのだ。

バーンは、自分の胸板に、右の乳首から、へその上まで、斜めにザックリと斬られた傷をさすった。痛い。とても、痛い。出血は自然に止まり、赤紫色のかさぶたになっていたが。

(この傷を負って、わたしに生きろと言うのか、アトラス。お前の傷を負って。)

「あぁ、ああ…うぅ、痛い…ガ…」

ガラリア、なぜお前と出会ってしまったのだ。なぜ出会った時わからなかったのだ。お前が運命の恋だという事に!なぜお前は…わたしでなく、彼を愛したのだ?それも、もう問えない。なにも言えない。

 わたしは彼女に、愛される資格も、可能性も、全て失ったからだ!

 アトラス、お前が憎い。どうして死んだ。どうしてあんな犬死にをした。

ガラリア…恥ずかしい。わたしは、彼ら若者たちを、大勢殺し、悲嘆し…わたしは、お前の胸にすがって泣きたかったのだ。お前に抱かれて慰めてほしかったのだ…ああ、恥ずかしい。こんなわたしに、お前を求める資格などないというのに!

 自分という人間が、こんなに弱いとは、知らなかった。戦場に行き剣をふるい、やっつけたぞと、勝利を喜ぶが、戦士の仕事だと思っていたとは…アトラスの闘いぶりを見よ、バーン・バニングス。わたしは、彼の足元にも及ばぬ、子供ではないか。人殺しをしただけの、子供だ!

<わたしは、ガラリアを、世界中の誰よりも、愛しながら、決して告げられない咎(とが)を負ったのだ>

 生きるのか、これから。毎日、あの美しい彼女を見ながら、告げられぬ想いを隠し、毎夜悶え苦しめというのか。触れたくても、触れてはいけない、あのかわいい女を、見せつけられるのか…

…そうか。これが、罰なのだな、アトラス。お前を、無念のまま死なせた罪への、これが罰か。

生き地獄と云うのかな…たぶん…彼女は、もう二度とわたしに、微笑みかけてはくれない。微笑みかけてくれたとしても、わたしは応えてやれない。ガラリア、わたしたちは、出会う運命に在り、そして永久に、契り合う事を許されない者になったのだ。

彼女はわたしを、上官として以外に、もうなにも、求めてはくれないな?…くれなくていいから…ただ、見守ってゆく。今までもそうしてきたのだ。これからもそうするというだけだ。ガラリア、お前を愛する故にだ!同じ城に住まい、同じ軍に生きるそなたと、もう二度と、まなざしを交わす事無き、別れを…今夜、わたしたち2人はしたのだ。

 彼女はわたしに背を向け、去っていった。パタパタと走って、行ってしまった。

「…う…」

 うずくまり、泣きじゃくっていたバーン・バニングスは、立ち上がった。頬に沿う彼の涙は、夜風に吹かれ、冷ややかに彼の顔を包んだ。夜空の、鱗(りん)の光りを仰ぎ見て、バーンは、独り、心を言葉にした。


「ガラリア…さらば、我が不滅の恋人。」

「月下の花」第1部 完

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