「月下の花」

第4章 ゆく人、来たる人、彼を追う者の名は、女


ガラリアが、自分の周囲の様子が変化したことに、気づくのには、さほど時間はかからなかった。

ガラリアが配属したのは、ラース・ワウの護衛が主たる任務の、守備隊であったので、毎日、城の周囲で働いていた。一方、騎士団の副団長であるバーン・バニングスは、領内全土と、特に国境の見張りが主たる任務である、警備隊の隊長も兼任していたので、騎馬隊を率いて、遠方まで出向くことが多かった。

領主ドレイクは、執務室で地図を広げ、ギブン家、クの国、そしてエルフ城の配置を眺めて、外交について、即ち、飴と鞭の使い分けについて熟考している時期だった。そして、側近たちは、「お館様は、最近、よく図書室においでになり、オーラ・ロードについての書籍を閲覧されているな」と思っていた。

彼氏と遠距離恋愛をしている女の子は、クの国からやって来る、書簡を携えた使者を、毎日、城壁に立って待っていたが、使者は、せいぜい3日に1回くらいしか、来なかった。来ても、手紙や小包は、お館様宛てか、クの国に知人のいる他の者宛てで、待ち人からの手紙がない日もあった。待っているガラリアにとって、週に1通か、多くても2通の、アトラスの手紙は非常に少なく感じた。

今日もガラリアは、クの国の使者が、正門の前に来て、

「開門願う!」

と、叫ぶや否や、門番に、早くお通しせよ、なにをしておる、とせかした。すっかり顔なじみになっている外国の使者は、駆け寄ってくるガラリアに、笑顔で、

「貴女宛てですよ」

と、いつもの、水色の封筒を渡してくれた。わあ!と声は出さずに口だけ大きく開けて、ガラリアは、封筒を抱きしめて、人気(ひとけ)のない場所へ走る。ベルトで腰に携えている小刀で、封を切ると、封筒と同じ水色の便箋が数枚。取り出すと、紺色のインクで書かれた、彼の、流麗な筆記体が、彼女の胸を打つ。

『愛しいガラリア!

ラース・ワウの客間で君を抱きしめた、あの日からどれだけ経っただろう?わたしは今、ルフト領にほど近い、別荘でこの手紙をしたためている。この屋敷は長い間、使っていなかったから、君を招くためには、きれいにしないとね。準備に少々手間取りそうだよ。だがもうすぐ、君に会えるのだと思ったら、わたしの心臓は踊るばかりだ!』

準備だなんて、いいのに。近くまで来ているなら、早く会いたい、とガラリアは気がせいた。その手紙には、別荘までの近道の地図や、迎えには部下を差し向ける旨や、そして恋人への、情愛の言葉が、とうとうと綴られ、インクと紙とのにじみが、彼の美しい姿と重なって見える。

ガラリアは、彼の筆跡を指でなぞって、羽ペンを持つ彼の手指を想起し、その手指に触れられる自分を感じ、花を熱くした。手紙の末尾に、明日の夜会おうと書いてあった!彼と、手紙でしか話せなくなって、1ヶ月以上経っている。ガラリアは、アトラスの肌の感触を思い出し、頬を朱鷺色に紅潮させた。

 夕食をとるため、ガラリアは大食堂に来た。彼女は、食欲は旺盛だったが、最近、ここに来るのは、少し気が引けていた。調理場の見える横長のテーブルの前に立ち、給仕係りの女召使に、肉と野菜と、あれとそれをくれ、と口頭で言って、着席しておれば、注文したものが運ばれてくるのだが…

「お待たせしました」

と、年老いた女給が、ガラリアの前に置いた料理は、ガラリアが注文したもの+別のもの。今日は、ガラスの器に盛られた黄色いゼリーが、一品余計にあった。ガラリアは、またか、とため息をつき、

「これ、頼んでないけど…」

と、女給に尋ねると、女給は、片手を後方に向け、テーブルを2つ隔てた席を指し、

「あちらの方からです」

見ると、儀礼式でガラリアが腹にグーをかました、太った青年兵が、ニタニタして手を振っている。

 出た。【必殺!あちらのお客様からです攻撃】である。ガラリアは、頬の片側だけひきつらせて、口は半開きで一応、軽く礼をしたが、内心(やめんか…)と困っていた。

 1ヶ月前、最初に、この攻撃を受けた際、女給の決まり文句を聞くと、ガラリアは

「ハァッ?!」

と叫んで席から立ち上がり、周りを睨みつけたものだった。なんの陰謀だ、そんなこと言って、後で、この頼んでないデザートの代金も私に払わせるんだろう、と思った。それが、男からの贈り物だとわかった時には、呆然とした。そして、大食堂から出るとすぐ、頼みもしないのにおごってくれた男が近寄ってきて、

「な、城下にいい店があるんだ、飲み直しに、一緒に行かないか」

とか、言ってくるのである。イヤである。ガラリアはいつも、「行かぬ」とあっさりふっていた。だが、ふってもふっても、別の男が、今日は黄色いゼリーをおごってくれた。食べて、自分が注文した分の代金をテーブルに置き、素早く立ち去ろうとすると、例のデブがやはり寄って来て、

「ガラリアは難攻不落だと、皆が言うけど、俺のことはタイプじゃないかな〜って思うんだ」

難攻不落なのはお前の体脂肪だろう、とガラリアは思いながら、つっけんどんに言った。

「だから、言っているではないか。何度も。私には恋人があるのだ」

「遠距離だから、淋しいだろう。な、な、俺と遊ばないか」

「遊ぶってなにをするのだ」

「どこかで酒を飲もう」

「お前と飲むくらいなら、トロウと飲んでいた方がましだ」

といった、ガラリアにとって不毛なやり取りが、最近多くなっていた。彼女にしてみたら、ふん!私が幼い頃には、いじめてばかりいたくせに、下心があると、手の平返して、猫なで声出しおって!と不愉快極まりなかった。ガラリアを実際にいじめた者と、今口説いてくる者が、同一人物でなくても、彼女から見た「男」という意味で、両者は同一なのである。

立派な彼氏がいると知っていて、その上で遊ぼう(=俺と寝てみない?)と言ってくる男に、ロクなもんはいないことを、彼女は理解できるようになっていた。

 ある日は、こんなこともあった。城壁に装備している砲台の点検をする際、はしごを登らなければならない場所に来た。すると同じ点検係りの男たちが、ガラリア、先に上がれ、と言う。別に、先でも後でもどっちでもいいので、では、とガラリアは、幅の狭いはしごを、スルスルと登り、途中で、ハタと気がつき、止まって下を見た。

男たちは、下から、私の、お尻のくねくねする様を見上げたかったのだ!ガラリアのオレンジ色のズボンは、ぴったりと体に沿っていて、お尻の谷間も、太ももの曲線も、くっきり見える。はしごによじ登る姿を、下から見上げると、両足が微妙に上がったり下がったり、その度に、お尻がくいっくいっと盛り上がって、割れ目の形がはっきり見えて、たいへんよきものとなる。

男どもは、たまんねーなーおい、とか、あのふくらみがこう、とかなんとか、ささやき合っている。ガラリアは、なんという無礼な連中だ!と思っていた。

 砲台に全員が上がり、ガラリアが、黒い火砲の先端を持つと、白魚のような手指が、真っ黒になった。彼女が自分の手を見て、随分すすがついているな、と思っていたら、男の一人が、優しい口調で

「ああ、そっちは俺がやるから、いいよ。お前は、弾が揃っているか、点検してくれ」

と言い、彼は、ポケットから、もぞもぞと自分のハンカチを取り出して、

「ほら、これで拭けよ。手が、そんなに汚れてるじゃないか」

ハァ?…さっき、私のお尻を見て欲情して「侮辱」したくせに、なぜ今度は親切にするのだ?と、考えてみたら、この男だけは、下からじっと見上げてはいたが、下卑た言葉は発さなかった。

さて、ガラリアは、こうした、周囲の男性たちの、自分への接し方の変化について、丹念に観察し、思索した。私が極々小さかった頃には、悪童たちは、悪口を言い、暴力をふるった。12歳の時に、犯されかけた。あの時に、男が、私の体にどんな興味を持つかが、初めてわかった。その後も、士官学校の同級生たちに、いじめられ、陰口を叩かれた。父の罪についての、悪口を言われることが、少なくなったのは、士官学校で上級生になった頃。それは、私が先輩になり、成績も最上位だったことで、誰も文句をつけられなくなったからだ。…バーンが、私の悪口を言うな、と、助けてくれたしな…

 正規軍に入り、アトラスという男性とめぐり会い、褥を供にする恋人を持った。私の、気持ちと体とを、一緒に慈しんでくれる人ができて、ガラリアは、好ましい男性に抱かれることは、忌み嫌うべきことではないことがわかった。これが、彼女の人生の、1つ目の岐路であった。

そして、とうとう、ガラリアは、自分の「色香」に気がついたのだ。

 【必殺!あちらのお客様からです攻撃】の他にも、大食堂では、やたらと隣りに座りたがる男が何人か、いるし、その中に【必殺!俺は手相が見れるんだ攻撃】をする者がおり、いきなり手首を握ってくるので、勿論、顎をカチ割ってやった。教練の後、休憩していると、【必殺!疲れたろう、俺はマッサージが得意なんだ攻撃】をする者は、ガラリアに、やはりあっさりと「いらぬわ、そんなもん!」で一蹴された。

 他にも、まったく効能のない、男の必殺技は、枚挙に暇がないが、ガラリアでなくとも、誰にも通用しないので、やめるように。特に手相。今度やったらお前の生命線は今日までと思え。

 そう、ここが肝心である。私の色香「だけ」に酔って、下心で口説いてくる者は、真実、私を大事に思っているのではない。

先日、砲台でハンカチを貸してくれた青年は、ガラリアにデザートを押し付けることもせず、触りたいから触ると言わずにえらそうな理由をつけて触ってきたりしない。ただ時々、後方から、私のうなじやお尻を見つめては、熱いため息をつき、私の首筋の香りをかいで、目を閉じうっとりしている。そして、さりげなく、仕事を手伝ってくれたり、アトラス様から早く手紙が来るといいな、なんて言ったりする。

こういう人は、私を、そういう目では見ているけども、私がイヤがることは、しないのだ。そして優しくしてくれるのだ。この観点で、周囲の男性を振り分けてみると、自ずと、「敵」と「味方」の判別ができる。

 ガラリアは、自分の「武器」を認識し、その上で、<武器を駆使した際の、相手の反応如何によって、その男の人間性を、自分への、誠の情愛の多寡を測ることができる>ことを、わかってきていたのだった。これに気がついたことが、彼女の人生の、2つ目の岐路なのだ。

 それにしても、とガラリアはまた、自分の恋人に惚れ直した。アトラスが別れ際に、他の男をそばに寄せるな、と言ったのは、私がこうなることを見越していたからなのだ。あの人は、どこまで慧眼なのだろう。

しかも、と、ガラリアは赤い唇を少し開けて、ほくそえんだ。

「しかも、アトラスは、私のこと、他の男に触れさせたくないと、焼きもちを妬いてくれているのだぁ」

これは女冥利につきることである。彼のようなしっかりした男性が、そこまで想ってくれるほど、私って…と、こうした探求を重ねて、ますます、ガラリアは、自分の「武器」を自覚していった。

「そうしてみたら…バーンは」

バーンとは、部署が違うので、最近はあまり2人で話す機会がなかったが、ほぼ毎日、顔は合わせていた。ガラリアは、男たちの、自分を見る目が変わってきたことに気づいてから、改めて、バーンに話し掛けてみようと思い、デブをふってすぐ、長年の友人の姿を探した。

 友人とはいえ、最近、彼とは、なんだかしっくりこない。ご機嫌ななめなことが多いし、なにか、私のことを、避けているような気もする。ふん、へんな奴、私がなにをしたというのだ。

私はお前が、初恋だったのだよ…でもそれは、お前は知らないし、それに今は、恋人ができた。お前とは、今まで通り、友人だろうに。バーンは、いや、バーンも、私を見て、きれいになったと、思ってくれるのではないかな。思ってほしい…と、ガラリアは、窓ガラスに映る自分の姿を見て、

「入隊して知り合ったばかりの男ですら、私に親切になったのだ。バーンならば、今までより、もっと、優しくしてくれるようになるだろう」

と、考えていた。

バーン・バニングスは、夜陰に灯されたかがり火で、橙色に照らされた回廊にいた。横にミズルもいる。ガラリアは騎士団長ミズルにまず挨拶した。

「ミズル殿、本日、アトラスから書状が来ました。」

「うむ、わたしにも来た。別荘におられるとのことだな。明晩、部下をこちらに遣わすと。」

さてこの会話、彼らが言っている書状というのが、アトラスが言っていた「正規の郵送」であるから、公に話せるのである。誰から、誰に手紙が来たのか、皆が知っている範疇であるから、話すのだ。ミズルの立場の者に、アトラスが部下を遣わして、ガラリアを迎えに来ることを、了解させている。これが、正式にお付き合いするということである。

ミズルは、静かに微笑んで、ガラリアに言った。

「ガラリア、相手方は、外国の高位の御仁だ。そそうのないようにのう。」

「わかっております、ミズル殿」

注意を促しながら、ミズルの顔は、いたって優しげだった。ガラリアは、ミズルが、自分の恋の応援をしてくれていることが、よくわかり、嬉しかった。

横にいたバーンもまた、アトラスから正規の書状をもらっていた。そこには、事前に話をつけた者同士の、約束事が書かれていた。バーンは、今日の昼、アトラスの蝋印が押された水色の封筒を、自分の部屋で開けて読んだ。紺色のインクで、こう書かれていた。

『親愛なるバーン・バニングス殿

先だっては、それがしの申し出を受領してくれた事、誠に感謝に耐えない。そして、貴殿の騎士道精神の有り様には、感謝すると供に感服致す。正直、そんな貴殿にだから言えるのだが、離れて暮らしている彼女のことが、心配でならぬ。毎日そばにおられる貴殿が羨ましく、而して、貴殿にしか頼めぬ事だ。

ガラリアのことを、どうか、頼む。

日々見ている貴殿には自明であろうが、彼女は、朝を迎える毎に、朝露をふくんだ花のように美しくなっておろう。彼女の美しさは今思い浮かべても、この上なく例えようもなく(バーン、ムカついてきて読み飛ばす。何行ノロケれば気が済むのだこやつ!)で、あるから、我が恋人の貞操が心配でたまらぬのだ。貴殿の裁量で、ふとどき者が彼女を傷つけぬように見守ってほしい。我が侭な願いと思われるであろうが(その通りだよ!)何卒よしなに。』

 ミズルは、明日、恋人に会える喜びに満ち、素直な笑顔を浮かべたガラリアと、服の内側にかゆいところがあるのに、服の上からではかけなくてイラついているような顔のバーンを見ながら、クス、と笑ってその場を去った。わかるわかる…わたしもそうだった。アメリアは…と、ミズルは、若き日の自分と、青い長髪の青年とを、重ねていた。

ガラリアは、バーンがミズルのように、私と彼氏とのことを、さわやかに祝福してくれるとばかり、思っていた。

「バーン、警備隊は、クの国境にも、よく行っているのだろう」

「うむ」

なんだ、そっけないな。しかも、やはり何か、微妙に、怒っているみたいだ。と、思いつつガラリアは、いつも通りに、彼のすぐ隣りに近寄って、構わず話し続けた。

「彼からの手紙に、バーンにも宜しくと書いてあった」

「(なにが、カレだ!なにが、ヨロシクだ!)そうか。わたしにも手紙は来た」

「私のことを、彼は何か言っていたか?」

「(お前のことしか書いてなかったわ!)あぁ、宜しくとな。…それと、アトラス殿は、わたしのことを、騎士として立派だと誉めていた」

「フゥーン、どこが立派だと?」

…こ…この女…よくもヌケヌケと…わたしが、お前を、アトラスに譲ったのだぞ!知っているだろう、そのことは!と、思い、バーンは、ハタと立ち止まった。

 そうだった。ガラリアは、事前にわたしとアトラスが話をつけたことを知っているのだ。アトラスは、彼女にその件を話した、と、既に、バーンに手紙に書いてよこしていた。

では、ガラリアは、その話しをアトラスに聞かされた時、どう思ったのだ?…彼女はわたしのことをどう思っていたのだ?

 バーン・バニングスは、ガラリアと出会ってから4年以上も経って、ようやく、この重要な命題に気がついたのだった。そして隣りに立っている、自分より数センチ背の低い彼女を、つと見た。

 ガラリアは、最近、周囲の男たちの、自分を見る目が変わったと気がついた。それを、他の誰よりも、どの男よりも、深く、それは深く、強く、わかっていたのは、バーンであった。充分すぎるほどに、痛いほどに、感じていたのだ。

下方からわたしを見上げるのは、花のかんばせ。瞳は、モス・グリーンの宝石。白い肌にその赤い唇は、ミルクにバラの花びらを浮かべたようだ。そして、この香り。これは、無機質な人形ではない。生きている「女」の芳香だ。今ここにいる彼女は、既に、男を知った体なのだ。

この美しい肌は、この、いまいましい女は、わたしに世話になった恩義を忘れて、他の男のものになったのだ!なんだその笑顔は。なんだその化粧は。嬉しいか。そんなに嬉しいか。そんなに、アトラスが好きか。

…そんなに…わたしはどうでもよかったのか!!4年も一緒にいたのに…ずっとお前を見守っていたのに、お前は、わたしのことなど、そんな風には見なかったのだ!わたしの気持ちもわからずに、たった3日間会っただけの男に、なびきおって、この女!

バーンは、眼前にあるガラリアが、美しければ美しいほど、無邪気であればあるほど、肌の香りに吸い寄せられそうになればなるほど、疎んじた。心から憎んだのではない…そばにいてほしくなかった。

「ふん、お前に騎士道の話しをしても、わからんようだな!」

「なっ、なんだと!どういう意味だ!」

「もうよい、お前と違ってわたしは忙しいのだ。色恋の話しなどに付き合っておれぬわ」

「な…バ、バーン!待て、その戯言はどういう了見だ!待てと言うに!!」

ガラリアの激昂した声など聞かず、バーン・バニングスは足早に行ってしまった。

 なぜだ?!ガラリアには、なにもわからない。なぜ、バーンは、急に冷たくなった?なぜ、あんなひどいことを、私に言うのだ?ひどい…アトラスから、バーンが申し出を承知したと聞いた時、どれほど私が悲しんだか!ずっとお前を…好きだったのに、お前がふったのではないか!そうか、バーンを友人と、思っていたのも、私の期待だけだったのだ。バーンは、バーンは…私のことなんか…

 ガラリアは、ついさっきまで、自分の「色香」について持っていた自信が、音を立てて崩れていくのを感じた。バーンに対して、少しでも、「武器」が通用すると思っていた自分の、なんと愚かなこと!

 バーンは、私のことなど、女としてどころか、友人としても、大切に思ってはくれないのだ!!

 薄い青色、アトラスの便箋によく似た色の、髪の毛を持つ、ふたりの男女は、背を向け合い、悲しみに打ちひしがれて、それぞれが来た道を帰って行った。

 とぼとぼと歩いて自室に戻ったガラリアは、倒れ込むようにベッドにうつぶせになった。両手で枕を抱きしめて、枕カバーの白い布を歯で噛み、また放し、「泣くまい」と自分に言い聞かせた。「さっきのことを考えないようにしよう」とも言い聞かせた。だが、悲しみはおさまらなかった。暗い部屋でひとりになると、より一層、バーンの言葉が、態度が、脳裏に浮かんで、両の頬が目の方へきつく寄り、眉間のしわも、目頭に寄せるしわも、深く痛く肌に突き刺さった。

「バーンは、」

ガラリアは、辛く重い<現実>を認めなければならなかった。

「バーンは、私のことがきらいになったのだ」

以前は、そんなことはなかった、と思い出を辿ってみた。初めて会った時、異性にもこんな優しい人がいるのだ、とびっくりした。学校では、いつも私をかばって助けてくれた。彼は、先に卒業してしまっても、時々、馬を駆って、学校まで会いに来てくれた。そしてふたりで、語り合ったものだ。

正規軍に入って数日、そうだ数日間?は以前通りだった気がする。いつの間に、私たちはこんなふうになってしまったのだろう。

「私たち、だなどと、今、言葉にするのさえ、愚かだ!」

アトラスは、騎士道にのっとって、正式にバーンに申し出をしたのだ。ということは、バーンが私の恋人だと、アトラスは見たのだ。彼からそう見えたほどに、バーンと私は…仲がよかった、はずだ。でも、アトラスは、湖でこう言っていた。

<君は、彼を好きだっただろう?>

そうだ、アトラスは、私がバーンを見つめる様子を見ただけなのだ。バーンが私を、そのように見ていた、とはアトラスは言わなかった。アトラスはミズル殿から、私の生い立ちの話しを聞いていたし、同年代の、唯一の「親しい友人」が、バーンだけだったから、だからアトラスは彼に話しを通した。それを、

「バーンは、なんのためらいもなく、私なんかに目もくれず、あっさりと、アトラスに私を、くれてやったのだ!」

うう…と、嗚咽がもれてしまった。

いいのだ…女として見てくれなくとも、せめて、普通に、色んなことを、喋り合ったり、冗談を言ったり、したかっただけなのに…昔はそうだったのに、バーンはどうして…私に冷たくなったのだろう。アトラスに私を譲ってしまうということは、私のことを、ほしくは、ないのだ…くうぅ…でも、「友人」でもなくなるとは、どういうことだろう?

ガラリアは、この苦しみから逃れたかった。

「そうか」

片方の眉だけを、きりりと寄せ、憎々しげに、ガラリアは枕から顔をあげた。

「バーンは、士官学校の入学式で、私に、同じ学生の身だから、と言った。正規軍に入って間もなくから、急にバーンの態度が変わった。つまり、彼から見たら、私がただの後輩ではなくなり、遊んでいる余裕がなくなったのだ。戦士としてライバルの立場になったからだ!」

彼女には、さきほどの初恋の男性が、手の平を返して冷たくなった様が、男の嫉妬の現れだという発想が、全く出なかった。なぜだろうか?知らないからである。バーンが自分のことを憎からず想っていることを知らない、のではなく、自分が彼を、どれほど深く想っているかを知らないのである。知りたくないのだ。一番強く、ほしい男性が、彼であることを、知りたくないのだ。

だって私は、彼に嫌われているのだもの!

「一人前の戦士になれば、誰だとて、いつか騎士団長に、いや、領主にだとてなれる可能性がある!例え、敵前逃亡兵の子女だとて…そうだ、私が…他の兵たちに、男たちに、好かれ始めたのを見て…連中は、私をいじめなくなったばかりか、優しくすらするようになった。バーンは、私が、指揮官となるべく、立場を固め始めたと、危機感を持ったのだ!バーンは、私、ガラリア・ニャムヒーに追い抜かされることを恐れて、甘い顔をしなくなったのだ!」

ガラリアは、初恋の人に、ふられた上に、意地悪までされた悔しさに耐え兼ね、そして心の痛みから逃避するために、こんな理由付けをしたのだった。

「ならば、そうして見せよう。バーン・バニングス!お前は、いつか私の前にひざまずくのだ…この屈辱は、必ずかえす!」

 そう嘯く(うそぶく)と、ガラリアはすぐ、入浴し、身を清めた。お風呂上がりの、サラサラした肌に、木綿のキャミソールとパンティーをまとい、シーツに横たわれば、肌の触感が、応えてくれる。男の人に、抱かれる感触を、思い描く。明日の夜には、恋人に会えるのだ。アトラスが、好きなのだから、いいのだ。あんな奴、もういいのだ。と、つぶやきながら、ガラリアは眠りに落ちた。

 夢を見た。黒髪の恋人に、私は、抱きついて、泣きすがるの。

「バーンがいじめるの!ひどいの、バーンが、バーンが!」

 助けて、助けて、アトラス…と、夢の中の彼女は、わんわん泣いていたが、目覚めた時には、その夢を見たことは忘れていた。

 こちらは、副団長の個室である。バーンの部屋は、ラース・ワウの西側に位置する棟の2階にあった。風呂上がりに、グレーの袖なしのシャツと、同色の下着だけを着て、行灯で明るく照らされた文机に向かい、クリーム色の便箋に羽ペンを走らせていた。バーン愛用のインクは、やや淡い黒色だった。さて、バーンの書く文字には、際立った特徴があった。

 小汚いのだ。読めないことはないのだが、とにかく小汚いのだ。本人は、かっこいい筆記体を書いているつもりなのだが、草書部分が超自己流で、他人には判読し辛く、しかも書きながら憤慨したりすると、無意識にその部分がでかくなったり、雑になったりする。副団長の書いた命令書は、署名を見ずとも、誰もがすぐに「バーン様のお手だ」とわかり、「さて、バーン様の、例の小汚い字を読まされるとするか」と覚悟されている始末だった。

そんなこととは露知らず、バーンは、まず、愛人への手紙を手短に書いた。

『美しきかな彼の君。

明晩、ロゼルノ邸にお伺いしてもよろしいか?お返事を、使いの者にお伝え願いたい。楽しき夕食の歓談と、貴女のかいなに抱かれて眠る一夜を夢見て、今宵は一人、枕を濡らすと致します。

             貴女の忠実なる愛のしもべ、バーン・バニングス拝』

バーンは美男子であるし、美声だし、喋る言葉遣いは流麗だし、文章もさほどまずくない。だけど、この小汚い字だけは、なんとかならないものかしら、はあ、天は二物を与えずとはこのことね、と、手紙を受け取る度に、ロゼルノ夫人は思っていた。

 バーンは、むしゃくしゃしていた。明晩、あの、青い髪の少女は、アトラスの褥で、彼の思うがままにされるのだ…勝手にするがよい。わたしは、床上手な大人の女とよろしくやって来るさ。

そして、バーンは、封筒にバニングス家の蝋印を押し、窓を開けて、階下にひそんでいるニグ・ロウにその手紙を落した。ニグ・ロウは、落ちてくる手紙を中空でひゅっと受け取り、すぐさま暗い茂みへと走り去った。

 ゆっくりと文机に座り直し、バーンは、厄介な手紙の方にかかった。クリーム色の、白紙の便箋の左横に、水色の便箋を置いた。紺色のインクの、アトラスの筆跡を眺めると、彼の背の高いスラリとした体格、黒髪のつややかさ、青い瞳の優しげな輝き、落ち着いた喋り口調が、バーンの目に浮かんだ。

「わたしは、彼が、尊敬に値する騎士だと認めている。そんな男だったからこそ、あの、かわいい…」

ぐっと目を閉じて、また開けると、バーンの澄んだ赤茶色の瞳は、暗く光っていた。

「昔からかわいかったさ。知っていたとも。だが、今、こんな気持ちになるほど、悔しいとは…女とは、歳ふる毎に、ああも変わるものなのか…あの肌の香り、あの腰の線…くぅッ!」

そして、憤ったまま、バーンは羽ペンを走らせた。

『親愛なるアトラス殿

貴方の言われる願い、あの女性を見守れと仰るか!此は、吾が積年の確たる責務にて、誰に言われずとも、明晰判明な科料であります。貴方には、昔語りとしてしか御存知でない、彼女の幼少時よりの寂寥、吾はこの目で見てきているのですから。吾よりこそ、貴方に御願い申し上げたい。

ガラリアのことを、どうか、頼む、と。

貴方であるから、吾は、件の御申し出を受領奉ったのです。

      敬愛すべき騎士、アトラス殿へ。貴方の友、バーン・バニングス拝』

激情に任せたため、一段と小汚い文字ではあった。しかし、そこには、彼が彼女のことを、どれほど大切に想っているかが、如実に表れていた。それを、この手紙を落手した騎士は、よくわかってくれる人物であった。

 ルーザは、寝室の鏡台の前に座り、鏡越しに、ベッドに寝そべる夫を見ながら、さきほどから、さかんに話し掛けていた。鏡に向かって。

「そうですわね、お前様。ギブンの嫡男ニーは、領民たちにそれは慕われておるとか。ロムン・ギブンはよき後継を持ったものだとの、もっぱらの評判ですのよ」

ドレイクは、ふむ、とか、そうだな、とか、妻にとっては煮え切らない返答しかしない。ルーザは、鏡に映る、寝化粧をした己が顔に見とれて、

(まだまだいける…全然、いける。対・10代20代、中年男はなおのこと。)

と、30代女性が思い込みがちな、実にうすら寒い笑みを浮かべて、話し続けた。

「当家には女婿(じょせい)がいなければ…のう、お前様。リムルを、先々、なんとしたものか?」

12歳の娘の父は、娘の名を出されると、即座に鮮明な発声で答えた。

「あれには、まだ早かろうて!先、ずっと先のことだ」

鏡の前の「女」は、下ろした金髪に櫛を通しながら、ケロッとして言った。

「初潮は迎えております。」

「関係ないわ!」

「お前様とて、リムルの嫁入り先のことはよく話しておりましょうに。わたしが言うとお怒りになる。」

「よそへやるつもりはない。…領内の騎士で、めぼしい者に与えるかのう。世が後継ぎと見なした者にならばな…」

ルーザは、領内の騎士だと?なんと、視野の狭い男か、と思いつつ、

「めぼしいとなると、誰でしょう?」

と、話題を合わせてやった。ドレイクは、ふむ、と改めて考えてみた。

「ミズルのとこは、一人息子だったな。歳は、確か、14、5歳くらいになろうか。他は、バニングス卿の子息か。バーンは19になるやならず…ふむ、年齢はつり合わぬこともないか」

鏡に映る夫の部分を、ぽん!と叩いて、妻は舌打ちした。めぼしいとは、歳の合う者という意味ではないわ!もうよい、娘の使い方については、もう少し先に考えよう。今は故国の愛人をけしかける方に、専念する事が先決。とルーザは、ゆっくり立って、のん気な夫のいる、ベッドへと向かった。ドレイクは、妻の金髪を抱き寄せながら、

(バーンは、使えるな。ミズルのせがれは、まだ士官学校生だ…娘は、この女狐とは違うて。リムルは、世の、幼く弱々しい娘…)

 父親というものは、妻と娘とが、等しく「女」であることを、知りたくない生き物であった。

 翌朝、朝礼が終ると、ガラリアは、副団長の姿を見ないように、駆け足で遠ざかった。午前中は、屋内の道場で剣術の教練があった。年嵩の教官に指導され、大勢の若者たちは、練習用の模擬刀を、互いに交えて、道場は人いきれでいっぱいだった。

剣術は得意だとも。ガラリアは、くさる気持ちをかき消すために、模擬刀の切っ先に、今夜会える恋人の笑顔を思い浮かべて、アトラス、アトラス、私はアトラスに抱かれたい、と念じた。早く抱かれたい。あの、なにもかも忘れさせてくれる快感に抱かれたいと。

 教練が一通り終った。汗を拭こうと、タオルがたくさん掛けてある棚に歩むと、砲台でハンカチを貸してくれた、例の年上の青年が、ガラリアより逸早くタオルを取り、

「ほら。」

と渡してくれた。17歳の汗ばんだ顔に、少し、笑みが浮んだ。青年は、彼女が笑ってくれたので嬉しく、そして汗と混ざって、なお一層、芳しくなったガラリアの芳香に酔っていた。そこへ、道場の外から、警備隊員の男がやってきて、ガラリアを呼びつけた。

「ガラリア・ニャムヒー、警備隊長からの命である」

バーンが、なんだ?と少しひるんだが、タオルを首に掛けたまま、すました顔で隊員の言葉を待った。

「その方を、クの親衛隊長殿への、使者につかわすとのことだ。今夕、先方の使者が来られるまでに、アトラス殿へ書状のある者を尋ねて取りまとめ、その方から直々にお渡しするように。これは、バーン殿からアトラス殿への書状だ。間違いのないように」

正規の郵送の使者が私か、とガラリアは、いまいましく、バーンのクリーム色の封筒を受け取った。

だいたい、命令ならば、朝礼の時に、バーンが私に、直接言えば済むことを、部下に言わせるとは。それほどまでに、私を…!と、ガラリアは、また憤った。この封書の中に、彼が、どれほど自分を想っているか、力強くしたためられていることなど、知るよしもなく。

 ガラリアは、道場にある専用のロッカーにバーンの封筒を入れ、鍵を掛けた。そして、何事もなかったかのように、タオルで青い髪を拭いていたら、剣術の教官が近寄ってきた。教官は、太った中年男で、現役兵は引退しており、後進の指導に当たっている立場の騎士だった。

「ガラリア、ああ、ちょっと君、さきほど見ていて気になったのだが、」

と、中年の教官は、ガラリアの背中のすぐ後ろまで来て、

「剣を下ろす時にな、手首の切りかえしが、少し甘いようで、こう、だ。」

と、ガラリアの右の手首をぎゅっと握り、左側のウエストにも、触ってきた。

 出た。【必殺!ゴルフを教えるフリしてOLに触りたいデブ課長攻撃】だ。中年デブの、醜い、脂ぎった、いやらしい手が、<ラース・ワウの花>に触れた。おっさんは、17歳の姿態を、ニヤニヤしてなで、至近距離から、視姦した。

 さて、前章で、ガラリアは触感の天才である、と述べた。触感の天才とは、どういう意味か。それは、彼女が、好ましいと思っている男性にならば、少し触れられただけで、花がカッと熱くなり、蜜があふれ、体の芯がほてって、全身の力が抜けてしまうほど、感じやすいということだ。

 そして一方で、彼女が、全然好きでない者、ひとめでムシズが走るような者に、触れられると、思考より先に、その敏感な肌が、ゾッとする悪寒を走らせ、反射的に、肉体が激しい拒絶反応を示すのだ。

「さわるなッ!」

言うより先に、ガラリアは、教官の顔をグーでぶん殴っていた。おっさんは吹き飛び、転んだが、ムシズの走る奴に、恋人のための、大切な肌を汚された怒りはおさまらない。ガラリアは、仰向けで顔をかばっている教官を、続けて2発、3発、ガンガンぶん殴った。周りの若者たちは、大騒ぎになって、はやし立てた。普段から、この教官は皆に好かれていなかったせいもあって、

「いいぞ!やっちまえ!ガラリア!」

と、声援を飛ばした。激怒して見境がなくなった彼女を、後ろから羽交い絞めにして止めたのは、ハンカチの青年だった。

「もう、よせ!」

「とめるな!」

青年は、ガラリアの両の脇をしっかり持って、忠告したが、ガラリアの、満身の力は弱まらず、彼の腕を振り払ってしまった。そこへ、殴られた痛みでうずくまり、振り返った教官の、言い放った言葉が。

「ふん!クの国の高官の、玉の輿に乗ったつもりか。いい気になりおって。敵前逃亡兵の娘が、うまくやったものだ!」

…ガラリアは…今の彼女に、一番言ってはいけないことを、兵たちの前で言われて…

 彼女の髪は、青い鬼火となり、まなこは怒りで見開いているが、屈辱で瞳孔は縮まり、さっきまで激情で赤かった肌は、今、青白く凍てつき…脳天から、「花」までを、氷の槍で突かれた!

 わ、私のことを…父のことを…そして、そして、私に、人生の幸福を教えてくれたあの人のことを…この私が、地位目当てで、アトラスに取り入った…だと!!

 青いガラリアは、壁に掛けてある<真剣>を取り、さやを抜いた。抜刀したのだ。そして、この、この世で最も許せない肉塊を、切って捨てようとした。これを見た周りの者、ハンカチの青年を含めた数人が、

「いかん、とめろ!」

と、事態の大事(おおごと)さを悟り、真剣を振りかざそうとするガラリアを、5、6人で、よってたかって押さえ付けた。ガラリアはもがき、天井をつんざく怒声で、叫んだ。

「離せぃっ!こやつは、許せぬ!」

押さえ付けている皆が、口々に言い聞かせた。

「だめだ、上官を殺したらどうなると思う!」

ハンカチの青年が、彼にしては、はっきりとした口調で、

「言いたい奴には、言わせておけよ!お前は、お前じゃないか」

みんなが言ってくれる意味は、理解できる、だが、と、ガラリアは、<自分に優しい>男たちの中で、離せ!と、もがき続けた。

 中年の教官は、よろよろと道場から逃げ出し、木立の陰まで来て、木に左手をついて、やれやれ、助かった、ふん、生意気な小娘め、どうしてくれよう、と血の混ざった唾を、地面に吐き捨てた。

その時。

ガラリアにさんざん殴られて疲弊した中年の、右の利き腕は、後ろからねじり上げられた。

「グアァッ!」

肩の骨まで砕き、悲鳴を聞いてもなお、背後の男は、教官の腕を放さなかった。教官が、首だけようやく振り向くと、そこには、青い長髪の、副団長が、いた。

その赤茶色の目は、静寂と供に、憤怒で、暗く光っていた。激痛にあえぐ教官は、息絶え絶えに、

「バ、バーン・バニングス!なにを、うっ、わたしは、その方の、父君の部下であった騎士なるぞ!」

バニングス卿の子息は、全く表情を変えず、瞬きもせず、なお黙って、年齢の離れた男の腕をねじり続けた。そうして、低い、するどい声でささやいた。

「わたしの父、ガラリアの父…そのような言葉、2度と口にするでない…」

バーンは、警備隊員が、ガラリアに伝達をしに来た時から、窓の外から、一部始終を見ていた。そして、教官の利き腕を、グキグキッ!と音を立てて、こなごなに折ってしまい、男を地面に投げ捨て、指さし、こう言った。

「そちは、もう剣は使えぬな。今日限り、師範職は解任する。…去ねいッ!!」

地に転がって痛みもがく男を、もう視野の外にし、ゆっくりと立ち去るバーンは、ようやく目を閉じ、つぶやいていた。

「誰に言われずとも、」

アトラスに書いた文面を思い起こしていた。

「誰が、わたしに命ずるか?彼女を見守れと。それはわたし自身の意志だ。彼女に、初めて会った時から、そう決めていたのだ」

この教官が退任し、2度とラース・ワウに登城しなくなったのが、副団長の命であることは、誰にも知らされなかった。

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