黒い三騎士(7)

さようなら黒猫スミさん

2015年9月30日撮影

スミは、2015年12月30日、午前10時、息をひきとりました。14歳と5ヶ月でした。1階の庭にめんした、この部屋で、白いタオルを敷いた座布団の上で、死にました。

スミは、2001年7月に生まれました。最初は、野良猫でした。同じ日に生まれた同胞種には、黒い三騎士 の、ホシがいました。同胞種とは、同じ母猫から、同時に出産された、子猫のことです。メス猫には、父親の違う子猫を、一度に出産する能力があります。スミやホシが生まれた2年後、黒い三騎士の末弟、ロミが、同じ母猫から生まれて、我が家にやってきました。つまり、スミとホシとは、同い年だけれども、ロミだけが、2歳年下の弟なわけです。ホシは、3歳で、交通事故で死にました。 それから10年以上の長きにわたって、我が家には、黒猫が、2頭いたのでした。だけども、スミが死んでしまったので、今では、ロミ、1頭だけに、なりました。

スミは、14年という、長い歳月を、毎日、毎日、私といっしょに、暮らしました。この記事には、スミの最晩年、2015年に撮影した写真を、掲載しました。

2015年9月30日撮影

猫の寿命として、14歳は、長生きだったでしょうか。黒い三騎士は、みなオスですが、うちで飼うようになってすぐに、動物病院で去勢手術をし、予防接種なども、しておりました。スミも、ある出来事が起こるまでは、定期的に獣医にみせて、健康管理をしておりました。ただ、スミは、野良猫でしたから、ケージに入れられて、病院に行くことを、非常にいやがっておりました。

そんなスミが、2013年9月、近隣住民によって捕獲され、山野に遺棄されたのです。住民は、行政が、害獣捕獲用に貸し出している檻を、他人の敷地に設置し、猫を複数捕獲し、車に乗せて、遠くに捨てました。「人間にたいする」いやがらせです。犠牲になった猫は、うちのスミだけではありませんでした。スミは、生きて帰宅し、私達家族は、安堵しました。行政に連絡し、違法行為であるむね、当事者に伝えてもらいました。この事件は、私達にとって、思い出したくない凶事です。スミの生涯で、たったひとつの汚点だと感じています。自分の家族が、物理的な攻撃を受けた恐怖心は、心理的外傷です。スミを見送るための、この記事に、こんな、悪い出来事は、記述しないでおこうかとも考えましたが、スミの死に様を、記録する上で、必要な事情であることから、掲載しました。

2015年5月6日撮影

2015年の、秋。スミに、もうすぐ寿命が来るのかな、と、感じるようになりました。体重が減り、持病であった目の炎症が、治りにくくなっていました。それでも、私達家族は、スミを病院に連れて行くことは、しませんでした。なぜならスミは、檻に入れられ、車に乗せられて、遠くのどこかに、捨てられたからです。私達が、病院に連れて行こうとするなら、ケージに入れ、車に乗せて、遠くに連れて行くことになります。もう二度と、スミには、そんな怖い思いを、させたくありませんでした。もし、病院に連れて行こうとしたなら、スミは、家出をしたことでしょう。そうしたら、もっと病状が悪化したろうと思います。もう14歳になった、老猫です。この家で、自由に、過ごさせてあげようと、決めました。うちには、猫用ドアが完備してあるので、スミも、ロミも、家の出入りは、自由に出来るのです。自由に。

2015年5月6日撮影

スミは、家の中にいるよりも、太陽の光を浴びることが好きでした。スミの首筋、耳の後ろに、私は顔をうずめて、じっとにおいをかぐと、麦わらの香りがしました。猫を飼っている人は、猫の体臭には、個体差があることを、ご存知でしょう。スミは、それはそれは、よい香りのする黒猫でした。私は毎日、「スミさん、スミさん。」と呼んでは、抱き寄せて、耳の後ろに顔をうずめて、深呼吸するのでした。嗅覚は、記憶と強く結びつく性質があります。たくさん猫を飼ってきましたが、スミよりも、いいにおいのする猫はおりません。紫外線を浴びた、黒い毛並みのにおい。スミのにおい。忘れることは、出来ません。

2015年8月6日撮影

この写真は、スミと、弟のロミがいっしょに写っている、最後の写真です。向かって左、寝転んでいるのがロミ。右の、首を上げているのが、スミです。ロミは、12月30日の朝、兄が死んだ瞬間に、そばにおり、悲鳴のような、高い声をあげました。私達は、スミの遺体を、ダンボール箱に入れ、お正月明け、1月5日まで、保冷しておきました。火葬場が、12月30日からその日まで、閉まっていたからです。私は、ネット通販で、保冷剤を大量に発注し、毎夕、入れ替えました。2016年1月5日の早朝、仏様となったスミをなでて、「スミさん、うちに来てくれて、ありがとうね。」と言いました。凍てつき、硬くなったスミは、毛艶よく、美しい姿でした。眠っていました。スミは、父の手によって、火葬場に運ばれました。

2015年3月26日撮影

晩年のスミを、私はとことん、甘やかしていました。14年間、いっしょに暮らしたとはいえ、基本的に猫の寝室は、人間とは別でありましたが、この写真は、私のベッドの足元です。スミは、寒い季節になると、暖房が効いている私の部屋に入ってくるようになりました。2年前から、スミが私のベッドに寝て、私は彼といっしょに寝そべって、本を読むようになりました。ただし、私が電気を消して、本格的に就寝すると、なぜだかスミは、ドアを押し開けて、出て行ってしまうのでした。

2015年3月29日撮影

電灯がまぶしいのでしょう。スミは、あっちを向いています。

2015年4月1日撮影

ときどきは、私のほうに、顔をむけてくれます。

2015年6月4日撮影

寒い季節になると、スミが私の部屋にくると書きましたが、これなんて6月で、夏です。なぜ、彼は、私のそばに来てくれたのでしょうか。私に、なついて、甘えてくれていたのでしょうか。わかりません。猫の気持ちを、人間ふぜいが、理解するなど、出来ないのです。スミの死期を通して、痛感させられました。スミの気持ちを私は、理解してやれなかったと、思いました。猫は、猫であるから尊いのです。人類は、猫を愛するあまりに、擬人化しがちです。しかし、ゆきすぎた擬人化は、猫の本性を、見損なう恐れがあります。

2015年8月5日撮影

ただ、明確に、言えることがあります。スミが、私のベッドで寝ており、私は、本を読んでいた。あの時間は、私の人生で、もっとも幸せでありました。幸せって、なんだろうかと、本を読みながら、私は本の中に、その解答を得ようとしていましたが、スミを失って、わかりました。スミを抱きながら、くつろいでいたあの時こそ、幸福の絶頂だったのだと。

2015年11月21日撮影

この写真が、元気だったスミの、本当の最後の一枚です。私はこの日、『レベッカ』を読んでいました。スミは喉を鳴らして、ゴロゴロと、あの懐かしい音をたてていました。スミが死んでしまって、私が、悲しいと思うのは、幸福だったこの日、この時間が、二度と戻ってはこないことです。どうして、時間は、過ぎていくのでしょうか。

   

12月に入ると、スミの容態は、急激に悪化しました。片目のまぶたが、目やにで、ふさがってしまうのです。それから12月30日の朝まで、壮絶な闘病生活が続きました。12月8日、獣医に頼み、飲み薬と、眼軟膏をもらいました。主治医は、スミが、過去の事情から、登院不可能な猫であることを、わかっておりました。抗菌剤を水に溶かし、スポイトで、私が飲ませました。目に軟膏をすりこむと、スミは、手でぬぐって、なめてしまいました。そしてやはり、投薬を嫌がって、もう私の部屋には、来なくなりました。

5日後の、12月13日、スミは家出をしました。外気温は、極寒です。私達家族は、「スミは、もう帰って来ないと思う。」と、覚悟しました。12月17日朝、スミは帰ってきました。食物をとらなくなったのは、12月10日頃からで、以降、死亡する12月30日までの20日間、スミは絶食しました。水を飲み込む体力も、無くなりました。ニャアニャアという声をも、既に失っていました。私は、水を、飲ませようとしました。スミは、看護師役の私を、嫌いました。スミは、家を出て、外で死のうとしました。12月18日の朝も、次の日も、また次の日も、庭に出ては、もっと遠くに行ってしまおうとしました。もう下半身を引きずって、腹ばいになって進むしか出来ません。それでも、スミは、最後のちからをふりしぼって、自分の死に場所へ向かおうとしました。

うちの近くに川があり、河岸のやぶまで、スミは、はいつくばって行きました。探しに行った父が、抱き上げて、家に連れ帰りました。この繰り返しが、12月17日から、12月30日まで、連日、続きました。スミの意志を尊重するなら、彼の行きたい所へ、行かせてやるべきだったのかもしれません。しかし、我が家の黒猫が、往来で、死骸となって見つかることは、私達家族にとって、耐えられないことでしたし、遺体を、きちんと葬ってやりたいと思いました。オス猫は、自分の死を、人間には見せないようにするといわれます。昔、うちで飼っていたオス猫たちは、死ぬ時には、姿を消しました。ですが、スミを、私達は、家の中に、連れ戻しました。

最後になりました。スミの首筋に、私は顔をうずめて、こう言いました。「わかった、スミさん、あなたの好きにしてください。私とは、ここで、お別れしよう。おやすみ!おやすみ、スミさん!大好きだよ!」。スミの体は、やせ細り、見る影もなくなっていました。白い鉢の水を、自力でひとなめした、怒ったような目つきが、脳裏にやきついています。スミは、猫用ドアから、独りで、出て行きました。12月29日の深夜0時のことです。もう止められませんでした。看病疲れで、私も家族も、倒れていました。

翌朝、2015年12月30日。起きだした父は、スミが室内にいないので、河原へ探しに行きました。はたして、やぶの手前で、進めなくなっていました。抱いていつもの、部屋に、連れ戻しました。叫んでいました。「ギャア!ギャア!」と、喉も苦しいだろうに、スミのしわがれ声が、家中に、響き渡りました。白いタオルを敷いた座布団に寝かせて、口元に水を持って行くと、抵抗されました。私達が、猫らしいと思っている様子とは、まったく変化してしまった、死期をむかえた生き物が、もがきました。奇声をあげ、寸時に、スミは静かになりました。

猫を飼えば、必然的に、猫の死と、向き合わなければならなくなります。かつて私は、ララという白い猫 を見送りました。彼女も、スミと同じ年齢、14歳で死にました。ララの晩年について、私には、後悔があります。癌と診断された、老猫のララに、手術をしたこと。元気に走り回っていたメス猫が、手術の恐怖と後遺症で、すっかり衰えてしまい、よたよたとしか、歩けなくなりました。まもなく、ララは死にました。野性味の強い個体にたいして、医療行為がすべて、ただしいわけではありません。スミには、そうはしたくなかったのです。

ララが死んだ時の後悔には、もう一つあります。どれだけ懺悔しても足りない、私は罪を犯しました。当時20代だった私は、色恋に、うつつをぬかしていたのです。ララが、ミャアミャア鳴いて、私を呼んでいたのに、電話にかじりついて、男にすがっていたのです。20年経った今、電話の相手が誰だったのか、名前も顔も、思い出しません。だのに、病身のララの、私を呼ぶ声は、今も私の胸をしめつけ、苦しめます。スミには、そうは、したくなかった。絶対に!この点で、スミにたいして、後悔のないようにと、こころがけました。

ララが死んだ時、私は26歳でした。スミが死んで、まだ生き残っている私は、46歳です。考えました。ララの死は、私に、「愛される」とは何かを、問いかけました。白いメス猫ララは、ただ、生きていてくれるだけで、存在そのものが、愛でした。私はララに、「愛される」、与えられるかたちで、愛を学びました。

一方、黒いオス猫スミは、私という愚者が、他者を「愛する」とは何かを、問いかけました。スミは、私のことなんか、愛していませんでした。スミが、なついていたのは、ご飯をくれる父だけでした。スミは、自身が非常事態になると、手のひらを返すように、私にそっぽをむきました。スミを大好きだった私には、12月の看護生活は、辛いものでした。抱いて寝ていた猫を、失う喪失感は、計り知れません。乗り越えられません!さらに、薬や水を与えようとして、スミに嫌われたのも、悲しいことでした。凍てついたスミの遺体に向かって、こう言いました。「スミさん、ごめんね、最後まで、いじわるでごめんね。」

ですが、後悔は、ありません。たくさん泣いたけど、私は、一生懸命、スミを愛したからです。20代の頃は、わかりませんでした。誰かに愛されなかった私は、不幸だと、思っていました。今は、ちがいます。愛とは、与えられるものではなく、自分が持ち続けるものだと、わかったのです。自分が相手に対して、どれだけ強く愛せるか。スミを愛した私は、幸せです。スミが私に、教えてくれた愛の、なんて偉大なこと!ありがとう、スミさん。大好きだよ!

  

2015年9月30日撮影

   

さようなら、黒猫スミさん。私はあなたを、心から、愛しています。

 

更新履歴

2016/2/17更新

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